【多事蹴論(39)】超過酷なスパイ活動の実態とは――。1992年、日本代表に初めての外国人でオランダ出身のハンス・オフト監督が就任すると、W杯アジア予選を勝ち抜くため敵国の詳細なデータを熱望。日本サッカー協会はこれまで重視してこなかったスカウティング活動を本格化することになった。

 そこで強化委員会(現技術委員会)の加藤久副委員長や世代別代表チームの監督やコーチらがスカウティング担当に指名されると、暗躍を開始した。ただ、インターネットが普及した現在とは違って試合映像を集めることも簡単にはいかず、選手名の把握すらも困難だった。ライバル国の在日本大使館に頼んで代表戦のテレビ中継を録画してもらい、雑誌や新聞などに掲載される敵国の情報を入手することからスタートした。

 そんな中でも1993年にカタールで集中開催され“ドーハの悲劇”として知られる米国W杯アジア最終予選に向けたスカウティング部隊の諜報活動はシ烈を極めた。当時、西野朗監督率いるU―20日本代表でコーチを務め、スカウティング担当として活動していた山本昌邦氏(アテネ五輪代表監督)はこう語っていた。

「ある時にある国の練習を視察(偵察)することになった。練習場が山の中腹のような場所にあるので、レンタカーで向かったら、途中にゲートがあって行き止まり。するとマシンガンを手にした兵士が続々と出てきて…。道も一本道ですぐにUターンができず、車から出されると『こんな場所へ何しに来たんだ!』って銃を突きつけられた。もうダメかと思ったけど…。あれには参った」

 最終的には道に迷ったフリをして何とかごまかして、難を逃れたというが、特に中東諸国での偵察活動はピンチの連続だったという。

 スカウティングの責任者だった加藤氏自身も積極的に情報入手に取り組んだ。当時、同行した協会スタッフによると「久さんが(非公開練習の実施されていた)スタジアムの外壁にはしごをかけて練習をのぞいた。いかにも近所のファンが興味津々という感じにするため、わざわざ地元の人が着るような服を着てね。時には、変装して現地サポーターに紛れて練習を見たり、非公開の練習をのぞくために草むらにはいつくばったり…。もし捕まった時に証拠を残さないようにするため、メモを取らないこともあった」という。

 どの国もW杯に出るため、ライバル国への情報の流出阻止に躍起になっており、アジア各国のスカウト部隊を警戒していた。途中でスパイ活動が見つかれば情報収集に失敗となり、厳しい追及を受けた上で地元警察に突き出された。国によっては身柄を拘束されかねない。「それだけで済めばいいけど、いろんな国があるから。場合によっては国家問題になりかねないときもあった」と話すなど、まさに“命がけ”でもあったそうだ。