【越智正典 ネット裏】「高校三年生」の時だけの、名古屋電気高校(愛知工大名電高校)野球部の同期会に出席してきた。幹事が同期生以外にはだれも呼んでいない。

「…みんなに会うと、いつの間にか、気が付くと名古屋弁まるだしで喋っちゃっているんですよ」

 工藤にとって、いちばん心が休まるときである。うれしい、ひとときであった。

 辞任を知った名電高校野球部合宿所の寮母保子さんは、庭の雀に語りかけていた。

「ねぇー、スズメちゃん、工藤くん、辞めたのよ。沢山勝ったのに…。工藤くん、ホントにご苦労様でした。これから平和な毎日になりますように祈っていますよ」

 工藤公康が名古屋電気高校に入学、入寮したのは1979年である。晩ごはんのときに叫んだ。

「わあー、ちゃんと一人前ある!」。よろこびの第一声である。高校1年生といっても、実際にはまだ中学3年生、家が恋しくてペソペソするものだが、公康少年は、もうオカズの取りっこの兄弟ケンカをしなくていいのだ…と驚嘆していたのだ。私が名古屋電気高校を見に行ったのは、同校のコーチに行っていた旧南筑中学、33年早稲田大学入学の中野正夫さんの指導を勉強したかったからである。中野先輩には、中等野球(高校)大会ノーヒットノーラン第1号投手・松本終吉さんに紹介していただいた(市岡中学、早大、朝日新聞、東洋高圧砂川監督)。

 名古屋電気高校は、81年夏、愛知大会で勝ち、第63回高校野球全国大会に出場。工藤はくじの関係で2回戦になった長崎西高戦で、1回に先頭打者を四球で出しただけで奪三振16、4対0。ノーヒットノーランをやってのけた。74年に金属バットの時代になってから、初めての快投だった。

 当時、同高では練習が終わりに近づくと当番選手が配膳の手伝いにやってくる。調理は終わっている。彼女は「お毒味をしてちょうだい。ハイ、口をあけて、アーン」。選手たちはこのお毒味にこと寄せての慈愛のアーンで育っていく。彼女は回想する。

「工藤くんはほんとうはとても淋しがりやなんですよ。でも、投げるようになってからは、公式戦の日はだれよりも朝はやく起きていました」

 =敬称略=