“最強”と呼ばれた全日本プロレスの元3冠ヘビー級王者の故ジャンボ鶴田さんが2000年5月13日に亡くなって今年で23回忌を迎える。今回は悲願のシングル初王座獲得を果たした試合について触れたい。 

 鶴田はジャイアント馬場とのコンビで、1975年2月5日にテキサス州サンアントニオでザ・ファンクスからインターナショナルタッグ王座を奪取。入門から約2年3か月で待望の初戴冠を果たした。こうなると期待が高まるのがシングル王座だ。76年8月28日の日大講堂では、73年4月の日本プロレス崩壊時に高千穂明久が返上して空位となっていたUNヘビー級王座が復活し、新王者決定戦出場のチャンスが巡ってきた。

 相手は米国代表の前NWA世界ヘビー級王者ジャック・ブリスコ。無冠とはいえ、8か月前の75年12月にテリー・ファンクに王座を明け渡したばかりだった。鶴田はブリスコの王者時代に3度挑むも、いずれも1―2で敗れているが、王座挑戦を経験して成長を遂げていた。しかもブリスコからは、馬場が74年12月に日本人として初めてNWA世界王座を奪っておりゲンのいい相手だ。

 加えてUN王座は日本プロレス時代のアントニオ猪木、坂口征二、高千穂も巻いている由緒あるベルト。鶴田は気合十分で決戦へ臨んだ。本紙は1面で「鶴田堂々の2冠王」の見出しと実に7枚の写真で決戦を報じている。

「ジャンボ鶴田がついに念願のシングルタイトルをものにし、G・馬場と保持するインタータッグ王座と合わせて堂々の“2冠王”となった。ジャック・ブリスコ(前NWA世界ヘビー級王者)とユナイテッド・ナショナル王座(UN選手権)争奪戦に臨んだ鶴田は28日、東京・日大講堂を埋めた7200人の大観衆の期待に応えて若さを爆発させた。1本目は十八番のフロントスープレックスで会心の先制フォールを奪い、2本目は足4の字固めに不覚を取ったが、このダメージに耐えて3本目も健闘。ブリスコのバックドロップからの足4の字固めを電撃的にスモールパッケージホールドで固め、勝利と黄金のチャンピオンベルトを手中にした。鶴田は『本当にうれしい。レスラーになってよかったなあという気持ちです。実は試合の前、日本テレビでテリー・ファンクとブリスコの試合を見せてもらった。じっくり動きや技を研究した。ブリスコも僕がフィルムを見ているとは思わなかったはずです』と語った」(抜粋)

 鬼の形相でブリスコを蹴りまくる鶴田(東スポWeb)
鬼の形相でブリスコを蹴りまくる鶴田(東スポWeb)

 本紙は鶴田の今後についても長い解説文を掲載している。「偉大なG・馬場でさえインター選手権を得たのは入門6年目ということを考えれば、いかにスピード出世かということが分かる。シングルを取ってようやく一本立ち、とはプロレス界でよく言われることだが、その意味で言うなら本格的な“鶴田時代の幕開け”ということになるが、しかし責任もまた重くなったわけで、これからが正念場。苦しい戦いはまだまだ続くのではないか。鶴田にも求められるのは精神面のより一層の充実である」(抜粋)。内容はやや手厳しい。

 UNはここから80年代前半まで鶴田の看板王座となり、83年8月にインターナショナルヘビー級王座の獲得に伴う返上まで、実に合計5度の戴冠とトータル35回の防衛を重ねた。PWFヘビー級は馬場の看板だったため腰に巻くことはなかったが、89年4月18日大田区体育館(当時)では、インターナショナル王者としてPWF&UNヘビー級王者スタン・ハンセンと3冠統一戦を行い、見事に勝利。“最強”の称号を不動のものとする。
 (敬称略)