【ダイアモンド☆ユカイ 昭和ロックを語る時が来た:キャシー中島編(3)】「レッド・ウォーリアーズ」のボーカル、ダイアモンド☆ユカイ(58)が、ゲストを招いて昭和時代に巻き起こった日本のロックムーブメントをひもとく。GSブーム中、ライブ会場の楽屋への出入りを特別に許されていたというキャシー中島(68)が明かす、もう一人の特別扱いされた“天才”とは?(隔週連載)
ユカイ:ゴールデン・カップスと知り合う前、GSブーム(1967~69年)直前はどんな音楽を聴いていたんですか?
キャシー:三田明さん。
ユカイ:意外ですね!
――三田さんは63年に歌手デビューし、翌年に映画デビュー。64年から6年連続で紅白に出演した歌謡曲の人気歌手ですね
キャシー:母親がフランスやアメリカの音楽ばかり聴いてた反動もあって、歌謡曲をね。その後、最初に好きになったGSはザ・カーナビーツ(67~69年)でした。
ユカイ:アイ高野さんがボーカル兼ドラムを務めて、デビュー曲がいきなりミリオンヒット。GSブームの主要グループのひとつですね。そして面白いことに、アイ高野さんはカーナビーツ解散後の70年にゴールデン・カップスに加入しました。カップスは不思議な“引力”を持ってましたね。
――柳ジョージさんがベースで加入したころのドラムが高野さんですね
キャシー:カーナビーツを湘南まで見に行ったり、当時、GSはジャズ喫茶で演奏していて、新宿の「ラ・セーヌ」や「ACB(あしべ)」、池袋の「ドラム」、銀座の「ACB」にも行きました。
ユカイ:けっこう熱心に追いかけてたんですね。
キャシー:実は私ね、楽屋に入れてもらえたのよ。どこもファンが外で待ってて、若い女性が中に入ろうものなら、ものすごいやきもちを焼かれるし、もちろんメンバーたちもファンを入れないんだけど、私とユーミン(松任谷由実)ぐらいかな。出入りできたのは。たぶん私は見た目が外国人だから、他のファンは「英語でも教わってるんじゃない」と思ってくれたと思う。
ユカイ:ユーミンさんはなんで入れたんですか? 当時は10代半ば?
キャシー:ユーミンはタイガースの楽屋に行って、加橋(かつみ)さんとよく話してました。私より2歳下なんだけど、10代の早いうちから「すごく才能がある子がいる!」と噂になってたの。
ユカイ:確かに、ユーミンさんは14歳の時に書いた曲で作曲家デビューしてます。しかも、その加橋さんに提供してますね。そんな早くから噂になっていたんですか!
キャシー:彼女が歌手としてデビュー(72年、荒井由実名義)する何年も前ね。
ユカイ:ところでキャシーさんはそれだけ熱心なカーナビーツファンだったのに、なぜカップスファンに?
キャシー:カップスはリズム&ブルースをやってたから、他のGSとは少し音楽が違って、私にはこっちが合ってると思ったの。それに横浜って米軍の基地があったから、当時のアメリカのヒット曲がいち早く入ったでしょ。カップスは日本で発売する前に聴いて、英語がわかるメンバーがいたから歌詞を聞き取って、それをデイヴ(平尾)が覚えて、演奏もコピーして、すぐゴールデンカップ(本牧の伝説的なライブハウス)でやってたの。私はダンスが好きだったんだけど、「テンプテーションウォーク」という踊りがはやったら、それにぴったり合う曲をやってくれたりね。
ユカイ:アメリカの最新の音楽を日本で最も早くやってたかもしれませんね。
キャシー:正直、発音はカタカナ英語なんだけど、歌いまわしとかイントネーションをそれっぽくやるから、アメリカ人も「かっこいいね」と言ってた。だからゴールデンカップには米軍の人もいっぱい来てましたよ。まだ自分たちのオリジナル曲もない時から、「いいグループがいる」と噂になって、いろんな人が見に来てました。
☆きゃしー・なかじま=1952年2月6日生まれ。米・ハワイ出身。3歳のころから日本に拠点を移し、69年にCMモデルとしてデビュー。歌手、テレビタレントとして活躍する。72年からパッチワークを始める。79年に俳優の勝野洋と結婚。静岡県御殿場市に移住し、87年に同市にパッチワークの教室をオープン。現在はタレントとして活動する一方、全国に6店舗のキルトスタジオを開き、後進の指導に励んでいる。
☆ダイアモンド・ユカイ=1962年3月12日生まれ。東京都出身。86年にレッド・ウォーリアーズのボーカルとしてデビュー。89年に解散後、数度再結成。最新ソロアルバム「The Best Respect Respect In Peace…」が発売中。