【東スポ60周年記念企画 フラッシュバック(28)】いまやサッカー日本代表がW杯に出場するのは、当たり前の光景になっている。2018年ロシア大会まで6大会連続出場。だが、それまで多くのイレブンが予選敗退の悔し涙を流してきた。中でも1994年米国大会での初出場をあと一歩のところで逃した「ドーハの悲劇」のインパクトは絶大だった。日本サッカー最大の衝撃となった舞台裏では何が起こっていたのか。本紙連載「フラッシュバック」では当時の日本代表で主将を務めた柱谷哲二氏(56)を直撃。改めて振り返ってもらった。 

 1993年10月中旬から始まった米国W杯アジア最終予選は、近年の方式と異なりセントラル方式だった。1次予選各組1位の6チームがカタール・ドーハで総当たりのリーグ戦を行い、上位2チームが本大会の出場切符を手にできる狭き門。そんな中、悲劇はイラクとの最終第5戦で起きた。2―1とリードしていた後半アディショナルタイムに同点に追いつかれ、歓喜を目前にして“地獄”に突き落とされた。最終戦までの経緯を振り返ると、当時アジア最強と言われたサウジアラビアとの初戦に0―0で引き分けると、次戦でイランに1―2の敗北。いきなり窮地に立たされ、試合後にはMFラモス瑠偉がイレブンのふがいない戦いぶりに激怒するほどだった。

 柱谷氏(以下柱谷)ラモスさんは、みんなが本当に戦っていたのかと怒りが爆発していたし、僕もそう思った。ただ、修正するといっても次の試合まで中2日しかない。マズイぞと思っていたら、都並(敏史)さんとゴンちゃん(FW中山雅史)が、みんなの部屋を回って冗談言って明るくしてくれてね。誰だったか「あと3つ勝てばいいじゃん」って言い出して、すぐに雰囲気は良くなった。都並さんは悔しい状況(左足首の負傷)だったのに、盛り上げ役をやったのを見ると「都並さんをアメリカに連れていこう」という感じになったよね。

 痛い黒星から立て直したチームは、続く北朝鮮戦を3―0で快勝すると、宿敵・韓国にも1―0で勝って4戦を終えて首位に立ち、W杯出場へ王手をかけた。イラク戦で勝てば文句なしで突破する状況となった。

 柱谷 チームの雰囲気は、いい意味で普通。みんないつも通りやっていた。ただラモスさんだけは、韓国に勝った後からしゃべらなくなった。心配になって話しかけたけど「集中」みたいなことを言っていた。やっぱりみんなラモスさんの顔色を見ているところもあるし、チーム全体がナーバスな雰囲気にならないように、試合までの2日間は寄り添ってラモスさんを一人にさせなかった。

 主将の配慮もあって、イレブンは平常心を保ったまま、10月28日、運命の大一番に臨んだ。

 前半5分にFW三浦知良が幸先よく先制ゴール。後半9分に同点に追いつかれたものの、後半24分に中山が勝ち越し点を奪った。そしていよいよ試合は終盤を迎える。

 柱谷 2―1になってから相手も疲れてきて、パワープレーみたいに単純に放り込むようになってきた。僕自身の感覚では「これならしのげる」「井原(正巳)とはね返せばいい」というのがあった。ただ体は疲れ果てていて、ジャンプもできないくらい。視野も極端に狭くなってきて、しゃべっていないと全てが真っ暗になってしまうようで必死に何か言っていたと思う。そうなったのは人生で1度だけ。あの1試合だけだった。

 まさに極限状態だったが、勝利への道筋は鮮明だった。柱谷氏は守り切ることが最善と考えた。

 柱谷 相手が放り込むようになったら、セカンド(ボール)を拾うのが大事になってくる。だから4―3―3の中盤を4枚にしてほしかった。森保、ラモスさん、よっさん(MF吉田光範)のところに北沢を入れたかった。ベンチに向かって「北沢を入れろ!」って叫んでいたのを覚えているよ。でも交代で出たのは、最初(後半14分)は福田で次(同39分)に武田が入った。

 土壇場になって生じた意識のズレ。それがあの一連のプレーを生んだ引き金になったのかもしれない。2―1の後半45分。武田がペナルティーエリア右からクロスを上げ、あっさりと相手ボールとなるも、森保が意地で奪い返し、ラモスに預ける。ラモスは裏へパスを出したが、カットされてしまう。そこから右サイドを攻められ、打たれたシュートをGK松永成立がはじいたところで90分が終了。そして悪夢のショートコーナーからの失点となり、イレブンがピッチに倒れ込むシーンにつながる。

 武田の右クロスをクローズアップする向きは少なくなかった。だが、主将の見解は違った。

 柱谷 キープしてくれという言葉が出なかった。してくれるものだと思っていたけど、キープって叫んでいれば…。悔やまれるのならそこかな。だけど僕らは間違い探しをすれば、ほかにもたくさんある。近くの人間がどうしてキープと言わなかったのかとかもそう。ただ、一つだけ言えることは当時、精度は別にしてみんな選んだプレー全てが正解だと思ってやっていた。

 何か一つの原因があるから悲劇が生まれたのではない。そういう意味では、選手交代から生まれた意識のズレを最後まで修正できなかったのも響いたと言える。

 柱谷 後ろにスペースが開いていたから、監督の心理としては武田のスピードで攻め込んでもう1点取って終わりにしたかったのかもしれない。でもそれは何年か後にわかったことで、あのときは点を取りに行くという発想にならなかった。やっている人間とベンチで見ている監督の差が(結果に)出てしまったのかもしれない。点を取りに行く感覚になれれば、また結果は変わっていたかもしれないけど、我々に経験が足りなかったということだと思う。

 日本サッカー界は失意のどん底に突き落とされたが、そこから這い上がって97年11月16日の「ジョホールバルの歓喜」で98年フランスW杯初出場を決めた。柱谷氏は「中東のセントラル方式は非常に不利だと、すぐに(日本)サッカー協会が動いてホーム&アウェーを確立させたことが、次につながったと思う」と指摘した。個人としても、その後の人生に大きく影響した出来事だった。

 柱谷 僕自身は忘れるつもりはないし、忘れてはいけないことだと思っている。これを経験したからどんなことがあっても乗り切れると思える。みんな(ドーハの悲劇を経験したメンバー)そういう感覚は持っているんじゃないかな。

 今もサッカーファンの心を刺激する歴史的出来事。だが、この悲劇は事件ではなく、日本サッカーを進化させるために避けては通れない試練だったのかもしれない。

 ☆はしらたに・てつじ 1964年7月15日生まれ。京都府出身。国士舘大学から日産自動車(現J1横浜M)入りし、Jリーグ発足後はV川崎(現J2東京V)で主に守備的MFとして活躍。初代Jリーグ選手会長も務めた。日本代表では主将を務め、国際Aマッチ通算72試合6得点。指導者として2002年から札幌、東京V、水戸、北九州などで監督を歴任。京都などで監督を務めた元日本代表FW柱谷幸一氏(59)は実兄。