「女剣劇」の第一人者として知られ、故野村沙知代さん(享年85)との〝ミッチー・サッチー騒動〟でワイドショーの主役となった浅香光代(本名北岡昭子)さんが13日、すい臓がんのため都内の病院で死去した。92歳だった。

 浅香さんは9歳で劇団「新生国民座」に入り、同劇団解散後、14歳のとき「浅香光代一座」を旗揚げ。1950年代以降、人気を博し、一座には故三波伸介さん(享年52)も在籍していたことで知られる。

 一躍その名を世間に知らしめたのは99年にボッ発した〝ミッチー・サッチー騒動〟だ。女剣劇の座長として、面倒見の良さで知られた浅香さんは98年に沙知代さんと意気投合し、剣劇の師匠と弟子という関係になり、舞台で共演するなどしたが、沙知代さんが稽古をさぼったことなどで関係は決裂。

 沙知代さんに衆院選の繰り上げ当選の可能性が出たことに対し、ラジオ番組で「何が代議士よ。あいさつもろくにできないのに。税金の無駄遣い。笑わせるんじゃないってんだよ」と猛烈に批判したのが発端だった。これに沙知代さんが「どうせ売名行為でしょ。金持ちケンカせずよ」と応戦したことで事態はヒートアップした。

 熟女バトルを機に、芸能界はミッチー派とサッチー派に分かれる大騒動となり、ワイドショーは双方が論戦を繰り広げ、その年の「新語・流行語大賞」では「ミッチー・サッチー」がトップ10入りしたほどだった。

 沙知代さんの実弟による経歴詐称告白などもあり、浅香さんは野村氏を公職選挙法違反で東京地検に告発する事態に発展。不起訴処分となったが、沙知代さんは繰り上げ当選の権利を辞退した。

 2001年12月には沙知代さんが法人税法違反(脱税)で東京地検特捜部に逮捕され、一連の騒動に終止符が打たれた。

「あたしゃ、許しませんよ」。舌鋒鋭く言い放つ浅香さんの姿は〝猛女〟に見えたが、その素顔は義理人情、思いやりにあふれた人だった。

 取材し、記事になると、数日後に記者の元には必ず手紙が届いた。それも時代劇のような巻物で、達筆な毛筆の礼状だった。こうした巻物の手紙を浅香さんは各方面に月500本も書いて送っていたという。

 それが悪用される事件が2010年に起きた。東京・江戸川区のコンビニで、推定60代の男が店員に浅香さんの巻物を示し「浅香光代の息子のような者だ」と信用させ、ツケで1年間にわたり、買い物をして、最後は約10万円を払わず逃走するという手口だった。

 この時も浅香さんは本紙に「こんなことをやられちゃあ、迷惑だよ。あたしゃ許せないね~。あたしの手紙をこんなことに使うなんて腹立たしいってんだよ」と怒りをぶちまけていた。

 だが、その裏では「こんなことでわざわざ来てもらって申し訳ありませんねぇ」と平身低頭だった。

 テレビ関係者は「野村さんとの騒動も、最初は人としての礼儀に欠けた振る舞いを改めてほしいと思った〝姐御肌〟が発端だった。女剣士としての正義感から、最後まで戦う姿勢を示すしかなかったのだろう。江戸っ子の粋があった女優さんでしたね」と話している。