【選手の言葉】「後ろがうらやましいです」

陸上男子400メートルリレー決勝(6日)で、チームのバトンミスにより途中棄権の結果に終わった日本の桐生祥秀選手(25)が、レース直後に語った言葉です。

「後ろ」とは、メダルをとった各国の選手たちが歓喜に沸くフィールドのこと。その光景を、あふれる涙で何度も振り返って見て、「後ろに日本の国旗を、この舞台で掲げたかったです」と話した。胸の内が大変なリアリティーで伝わり、胸が締め付けられた。

負けた直後の選手にあれこれ聞くなという声はオリンピックのたびに聞かれ、今大会では外国人選手からの問題提起もなされた。「かわいそうだ」という同情論も「翌日の方が気持ちを整理して話せるのでは」というロジックも分かるし、今後はそういう配慮の方向性にシフトしていくのだとも思う。

しかし、スポーツが究極のライブの感動であるのと同様、言葉の力もまた、ライブに勝るものはないとあらためて感じた。桐生選手の言葉は、「後ろ」の歓喜の光景や、隣から聞こえてくる女子銅メダルチームの弾んだ声など、生々しい空気感の中でこそ絞り出されたものだ。後日、気持ちを整理した状態で過去形で振り返るのとでは、その重み、尊さ、輝きがまるで違う。

桐生選手はこうも言った。「誰も悪くない。逆に言うと、予選で僕がもっと速く走って、多田や山県さんに心の余裕があれば結果も違っていたと思う」。応援してくれた人たちに感謝も述べた。

計り知れないショックの中で、とっさに出る言葉にこそ、その人の本質と値打ちが出る。あの状況でこれだけのことを言える桐生選手の人柄を知ることができたのも、直後の「第一声」だったからだ。バルセロナ五輪(92年)マラソン谷口浩美選手の「こけちゃいました」とか、シドニー五輪(00年)競泳田島寧子選手の「金がいいですぅ~」とか、その場だから出る素直な気持ちと人柄が、人の心を動かすのだ。

もちろん、話したくなければ「ノーコメント」とひと言残してパスすればいい(ノーコメントも立派なコメントです)。応援し、支援してくれた人も見るインタビューをあえてノーコメントとするのもその人の個性だ。かつて、惨敗に終わったある競技の選手たちが「あ?」「分かりません」とほぼ何も答えず去って話題になったことがあるが、それはそれで激烈な臨場感とインパクトがあった。

試合直後の言葉で個人的に最も印象に残るのは、ソチ五輪(14年)女子モーグルの上村愛子選手。5度目の五輪出場で悲願のメダル獲得に臨んだが、4位に終わった。本人も聞き手もつらいだろうと思ったが、インタビューエリアに来た上村選手は「聞きづらいでしょうけど、まっすぐ聞いてください」ととびきりの笑顔を向けた。

結果に心底納得しており、カメラに泣きまねポーズもみせた。16年に及ぶ競技生活を総括し、「メダルはないんですけどね。頑張ってよかったと思います。はい」。プレーも言葉も振る舞いも、何もかもがかっこよかった。こういうアスリートのプライドの形を見ると、「かわいそう」という腫れ物扱いは、逆に失礼な気もしてくる。どんな結果も、大いにたたえればいいのだ。

最近は「勝った人にだけ聞けばいい」という意見も耳にするが、勝った人の喜びだけ伝えるスポーツ競技っておもしろいのだろうか。

敗者のすごさが伝わって、初めて勝者の偉業が輪郭を持つ。血のにじむ努力をしたのに明暗が分かれてしまうところにスポーツの共感とドラマがあり、ライブで発せられた言葉が、その人と競技の魅力を際立たせる。頑張ったのにスルーされることほどさみしいものはない。コメントを求められるのは「この人、この競技について知りたい」と思わせる魅力があるからで、それはアスリートのプライドと直結するものだ。もちろん、聞く側、メディア側も、それに見合うスキルアップが求められるのは言うまでもない。

メダルにはならなかったが、決勝に進んだ喜びを「明日は明日の風が吹く」「神様がくれた贈り物」と語った競泳萩野公介選手や、体操内村航平選手の「米倉に土下座したい」、レスリング文田健一郎選手の「オリンピックの借りはオリンピックでしか返せない」、サッカー久保建英選手の「手ぶらで家に」、トランポリン森ひかる選手の「ここで輝ける選手は人としてすべての強さがそろっている」など、胸に刺さった言葉はまだまだたくさんある。夢をつかんだ人、届かなかった人。そのプレーと言葉の力を、あらためて胸に刻みたい。

【梅田恵子】(ニッカンスポーツ・コム/芸能記者コラム「梅ちゃんねる」)