コロナ禍のなか昭和歌謡が中高年の癒やしになっている。J:テレ(J:COMコミュニティチャンネル)で好評放送中の「太川陽介のスナック歌謡界~昭和スターが集う店~」では、マスターにふんした俳優の太川陽介(62)と、ゲストがお酒を片手に思い出話に花を咲かせる。昭和歌謡の黄金期を支えた太川だからこそ聞けるスターの秘話が人気だ。いつもは聞き役の太川に、今回はデビュー秘話から視聴率男と呼ばれる自身の仕事哲学まで語ってもらった。

 ――今日は太川さんのお話を聞かせてください

 太川 すごい苦手ですよね(笑い)。

 ――デビューのきっかけは

 太川 大ファンだった桜田淳子さんの相手役募集を見て高校生の時に応募したんだけど、締め切りに間に合わなくて。そしたら後に淳子ちゃんがいたサンミュージックからオーディションの通知がきて、それで受けようと。

 ――どうでした?
 太川 終わって帰ろうとしたら社長室に連れて行かれて相澤(秀禎)社長(のちの会長、2013年他界)以下重役がみんなで説得ですよ。恥ずかしいんだけど「君は10年に1人の逸材」だとか言われちゃって。

 ――1977年に「Lui―Lui(ルイ―ルイ)」がヒット

 太川 デビューの1週間前に赤羽のダイエーでサイン会やったけど、レコードが8枚しか売れなかった。すごい落ち込んでたらマネジャーが「大丈夫だよ、8は末広がりだから」って励まされた(笑い)。その半年後に「Lui―Lui」がヒットして同じ場所でサイン会あったの。始まる30分前に警察からストップがかかって人が集まり過ぎて危険だからって。スタッフは残念がったけど、ぼくは「やりぃー」って1人喜んでたの。

 ――やっぱりモテました?

 太川 そりゃあモテましたよ。詳しくは言いませんけど東スポだから。ハッハッハッ。
 ――「レッツゴーヤング」(NHK)で人気を不動に

 太川 始まった当初は僕の声援が一番すごかった。そしたらあっという間に(同期の)狩人が「あずさ2号」で大ヒットしちゃって。狩人が抜けたら川﨑麻世が人気出てきて、渋谷哲平が入ってきて、また抜かれてっていう…。毎週自分への声援が微妙に減っていくのが分かる。それがもうつらくて。人気が落ちていく瞬間を感じたときの恐怖で寝られない日が何日も続きました。

 ――その後、俳優に転身

 太川 アイドル歌手より俳優の肩書が欲しかった。俳優1本で行こうとしたら何も仕事がなくなった。28~30歳ぐらいまでかな。まぁ暇でしたね。

 ――転機は

 太川 家に引きこもってたんだけど「このまま終わるわけない」って自分に言い聞かせて外に出て人に会うようにした。そしたらミュージカルの大地真央さんの相手役の話がきた。それによってガラッと流れが変わった。そのプロデューサーがなんで僕にしたかというと、レッツゴーヤングを見ててこの子いいなってずっと思ってたと。だから全部伏線があるんですよ。

 ――太川流哲学は

 太川 すべてがプラスになるんです、仕事は。一生懸命やれば必ず。だからどんな仕事も一生懸命にやる。いつかくるんです。

 ――今では太川が出演すると視聴率が跳ね上がるとまで言われている

 太川 それプレッシャーでしかないよ。だから昔以上に数字気にするようになっちゃって。あんなの運ですよ。

 ――相澤会長の目に間違いはなかった

 太川 いやいや。(番組ゲストの)梅沢富美男さんは200年に1人だからね。負けたと思ったもん(笑い)。

 ☆たがわ・ようすけ 1959年1月13日生まれ。京都府出身。76年「陽だまりの中で」でレコードデビュー。翌77年に「Lui―Lui」で日本レコード大賞新人賞を受賞。79年からNHK「レッツゴーヤング」に出演し、司会を務める。その後、俳優業でも活躍。最近では蛭子能収と「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」(テレビ東京系)に出演し、人気を博す。