【久保康生 魔改造の手腕(10)】1976年夏の甲子園は3回戦でPL学園に敗れ終幕を迎えました。高校時代の私の活躍を、プロのスカウトも見てくれていました。

 特に地元のライオンズ(76年は太平洋、77年からクラウンライター)と広島が熱心に誘ってくれていました。

 ある日、私は関係者の導きで広島市民球場を訪れ実際に古葉竹識監督と面会したことがありました。球場の監督室で密会です。もう時効だとは思いますが、本当は当時のルールでもまずかったんでしょうね。

 確か10月の広島―巨人戦でした。広島市民球場の1階の狭い通路を通り抜けて、バックネット裏の一室から観戦しました。本当にもう目の前にはキャッチャーの後ろ姿が見える特等席です。

 ドラフトにかかる前の高校生の立場ですからね。それはもうワクワクしました。

 試合が終わると「久保くん、古葉監督が『会いたい』っておっしゃっているので」と監督室まで案内されました。

 また球場の狭い通路を通って監督室まで移動しました。

 当時、1学年上には北別府学さん(広島で通算213勝)が在籍していました。高卒1年目ですでにプロ初勝利を挙げ将来を嘱望されていました。

 そこで監督から「ドラフトで1位指名した時には頼むな。北別府と一緒に頑張って、広島を何とか強くしてほしい」と言われたのを覚えています。

 当時、広島・崇徳高に黒田真二という好投手がいたのですが、彼ではなく私を指名すると言われましてね。その時には、そうかあ、自分はこうやって広島に行くんだなあと思ったものです。

 で、その試合には一眼レフのいいカメラを持ち込んで、もうカシャリ、カシャリと熱心に撮影にいそしんでいたんですよ。何しろ特等席ですからね。

 巨人・長嶋茂雄監督の2年目のシーズンでしたねえ。ミスターの写真も撮りました。さらに試合後は古葉監督に面会もして、テンションも最高潮ですよ。

 このフィルムは大事に、もうすぐに現像しようと思っていたんです。そしてフィルムを巻き取ろうとレバーをグルグル回すわけなんですが、なんか軽いんです。手応えがないんですよ。

 何も考えず夢中でカシャカシャ撮影したはずが…フィルムの入れ忘れですよ。もう、一生の不覚ですよ。がっかりです。その後、カープへの入団も実現されませんでしたからね。ご縁がなかったんでしょうかね。

 一方で地元のライオンズはずっと自宅にまでスカウトの方が来られてましたね。父が飯塚商業の出身で、ライオンズのスカウトの方が父の先輩でした。

 しょっちゅう自宅に来ては食事をして帰る。「康生をくれ」と言っては、また家に来てメシを食って帰る。そんなふうにライオンズと広島はずっと熱心に誘ってくれていました。

 76年ドラフトは予備抽選で選択指名順を決定し変則ウエーバーで行われました。指名順位の1番はヤクルトで長崎・海星の「サッシー」酒井圭一が全体の1番目で指名されました。

 近鉄は6番目で私を1位指名してくれました。その後の7番目、熱心に誘ってくれていたライオンズは、柳川商の同級生の立花義家を1位で指名しました。

 近鉄は当時、西本幸雄監督の3年目のシーズンでした。伸び盛りのチームで私にとってはタイムリーでした。

 西本監督と野球をやれたのは本当に財産ですね。