【大みそかバトル激闘史2】2005年12月31日、さいたまスーパーアリーナで行われた「PRIDE男祭り」では、大みそか決戦史上に残る「決闘」が行われた。

 吉田秀彦 VS 小川直也。

「平成の巌流島」と呼ばれた一戦は明大柔道部の先輩後輩対決、バルセロナ五輪の金・銀メダリスト対決、勝負師対ハッスル・キャプテンなどと数々の副題がついた。しかも両雄の関係は「水と油」「犬猿の仲」とされ、両者出席の会見では異様な殺気が漂い、決闘ムードは高まるばかりだった。さらに小川の最大ライバルで盟友だった橋本真也が同年7月に急死。暴走王が亡き破壊王への弔い合戦をテーマに打ち出したことから、いやが応でも盛り上がった。
 
 4万9801人の大観衆の前で繰り広げられた決闘は1R6分4秒、レフェリーストップによるTKOで吉田の勝利。結果は吉田の圧勝に終わったが、試合内容については語られることは少ない。では実際、リング上では何があったのか。

 敗れた小川が明かす。「オレとしては作戦は殴り倒すしかないな、と。グラウンドじゃなくてスタンドの倒し合い。それだけだったね」。実際、序盤はパンチの打ち合い。ここまではプラン通りだったが、吉田に組みつかれ、小内刈りで倒されてグラウンドの攻防に。ここで吉田は小川の左足首をがっちりホールドして、前方に倒れ込みながらひねった。

 この瞬間、小川の左足首が折れた。「『わ、やっべえ、折れたな』と。ここで激痛というか…足の感覚がなくなって。踏ん張りが効かなくなって、足が動かなくなった」

 左くるぶし下を亀裂骨折。小川によれば、この時の体重は吉田より軽い108キロだった。「(体重の)ハンディをなくそうと思って。オレなりの猪木イズムだったけどね。結果的に落とし過ぎた。いつもの練習でもかからないこと(技)だったし、これを逃れたらいけるなと。でも、そこはうまくいかなかった」

 勝負はここで決まっていた。「そこからは全然覚えていない。折られてから、ほぼ思考能力がなかったなあ。橋本戦で(肩を)脱臼しかけて自分で戻したことはあったけど、骨折は人生初めて。『骨が折れるとこんなに痛いんだ』といまさらわかったよ」

 小川は左パンチを吉田の顔面に入れて、アンクルホールドから脱出。そこから顔色ひとつ変えず、パウンドを中心に攻撃を続けた。

「頭の中には1分、1秒でも長く(試合を)やんなきゃだけ。もう、勝ち負け関係なくて。お客さんの前に立った以上、自分から白旗を上げるわけにはいかないから。そこは(師匠のアントニオ)猪木さんの教えもあるし。相手も『折れた』とわかっていたしね。でも、右脚一本でバランスが取れなくて、グラウンドでのパンチ(パウンド)も全然ダメだったなあ」

 最後は吉田に下から腕十字固めで捕獲されてタップアウト。と同時に、レフェリーも試合続行不可能と判断してゴングを鳴らした。文字通り力尽きた瞬間だった。

 しかし、小川が真骨頂を発揮したのは試合後だった。敗者であるにもかかわらずマイクアピールでトリを締め、天国の橋本と観客に謝罪。さらに大観衆とともにハッスルポーズを決めてみせた。一方の吉田は小川のハッスルポーズの呼びかけに応じることなく毅然とリングを下り、勝負師としての矜持を示した。

「負けたことじゃなくて、足を折られてまともに(試合を)できなかったことがお客さんに申し訳なくて。ハッスルポーズは勝っても負けてもやるつもりだった。それが一つのテーマだったし。まあ本来なら、負けたオレは潔くリングを去らないといけないとは思うけどね。そこはPRIDE側も大目に見てくれたのかな(笑い)」

 会場を出て病院に直行したところ、レントゲン写真を見た医師から「よくこんな状態でやれましたね」と言われたという。その数時間後、本紙記者に連絡してきた小川は開口一番、こう漏らした。

「吉田はやっぱり強えなあ」

 決闘を終えた者にしか言えない、恩讐を超えた〝本音〟だった。さらに小川は当時をこう振り返る。「その後に(明大柔道部の)後輩たちに言われたんだけど、先輩同士が殴り合ってやっぱり面白くなかったみたい。それで『吉田先輩は負けたら終わりの世界だけど、小川先輩は負けてもねえ…』って(苦笑)。まあ(勝敗は)その差が出たのかな、とは思うけどね」

 吉田は「勝負師」としての信念に基づき、容赦なく勝利をもぎ取った。完敗を喫した小川も「猪木イズム」にのっとり、迷わず自分の道を行った。伝説の「昭和の巌流島」は2時間を超える死闘で猪木がマサ斉藤を撃破。「平成の巌流島」はわずか6分超で終わったが、互いの生きざまをぶつけ合った死闘だったことに変わりはない。