【取材の裏側 現場ノート】まだ、記者2年目だった1999年、初めてヤクルト・高津臣吾投手のボールを見た。宮崎・西都キャンプでのブルペン。右打者の外角低めに同じフォームで、同じ球筋の直球を投げ、すべてがストライクだった記憶がある。

 めちゃくちゃコントロールがいい。見たままの感想を、当時の小谷正勝投手コーチにぶつけると「何を当たり前のことを言うとんねん(笑い)。このピッチャーはノースリーからでも、簡単にアウトを取れる技術がある。よう見といたら勉強になるぞ」と教えてもらった。

 すると、本人にぶつけてみないと気が済まない。なぜカウント3―0から簡単にアウトを取れるのか。今度は高津投手に質問してみた。すると答えはこうだった。

「3ボールからはまず振ってこないでしょ? そこで1つはストライクを取れる自信はある。あと、もう1つストライクを取る方法はいろいろあるんだけどね。最後はフルカウントにすれば、ストライクからボールになる球を打者は大抵は振ってくれる」

 理屈はわかる。しかし、緊迫した本番で実行できる技術と精神力がエグい。99年シーズン、高津投手は守護神として30セーブを挙げた。

 あれから20年の月日が流れた。19年夏、浦和球場で行われたイースタン・ロッテ―ヤクルト戦を取材に訪れると、そこには高津二軍監督がいた。

 開幕直後の故障で二軍調整していた坂口智隆を取材した際に、印象的な言葉があったことを覚えている。

「高津さんと北川さん(当時二軍打撃コーチ)が自分の立場を配慮してくれて、いい調整をさせてもらっています。すごくありがたいです」

 19年の一軍は最下位となったが、CS進出の可能性がある限り、坂口には試合に出るための準備を促していた。しかし、その可能性がなくなると、翌シーズンへ向けて治療と回復に専念するよう指令があったという。

 当たり前のように聞こえる。だが「しっかりコミュニケーションを取ってくれて安心しています」と話した坂口の言葉が、名将の片鱗を示していた。

 チームが20年ぶりの日本一に輝いた記念すべきシーズンでの殿堂入り。本当におめでとうございます。(元ヤクルト担当・楊枝秀基)