【越智正典 ネット裏】別れは大切である。1988年、米フロリダ州のベロビーチへ遠征した中日がドジャータウンを去る日が来た。監督星野仙一はお礼を述べる選手代表に仁村薫を指名した。監督付、コーチ早川実がうなずく。

「薫は自分のことよりチーム全体のことを考え、みんなを引っ張る男です」

 早川は88年10月7日、中日がナゴヤ球場でヤクルトに勝って優勝を決めたとき、胴上げされる星野の下にもぐり込み、星野が両手両足をカッコよく伸ばせるように、星野のベルトをしっかりつかんでいた。この日は星野の父親正田仙蔵さんの命日だった(星野は母方の姓)。

 89年、星野は勝てなかった。悪戦の連続。早川は北陸遠征の金沢で、宿舎のすぐそばの屋台に「今川焼 本場十勝のあん入り」の幟が立っているのを見て買いに行った。戻ってくると星野が怒っていた。「どこへ行っとったんだッ」。寂しいのだ。早川は「これを食べると、今日から10勝します」「たわけ!」。星野の目が笑っていた。

 早川はいまでも言う。「薫はホントに野球が好きなんですよ。社会人、大学、どこへ行っても立派なコーチをします」。そう言えば、2021年の秋は頼まれて神奈川県伊勢原の専修大学練習場に、早朝の稲作が終わってから通っていた…。

 ドジャータウンを発った一行はオーランドに入った。翌日はティンカーフィールドで対ミネソタ・ツインズ。この試合が在米最終戦である。

 雨が降り出した。夜になっても降りやまなかった。激しくなった。チーフマネジャー本田威志(岡崎高、中央大内野手)とマネジャー福田功(奈良・郡山高、中央大捕手)が、明日天気になあーれ…と、てるてる坊主をつくって通用玄関に飾った。1試合でも多く対米戦を…と願ったのだ。午前2時、3時…二人は玄関を出て夜空を見上げていた。

 本田威志は、のちに中日の監督に就任した水原茂が、こういう男が大切なんだと中日に話した。球団は本田を正社員にした。

 福田功はのちに星野に二軍監督を内示されると名セリフを吐く。

「ありがたくて家内(操さん)にも言えませんよ。1週間ぐらいは一人で胸に抱いています」。福田は90年にウエスタン・リーグを制し、ジュニア日本選手権(現ファーム日本選手権)で巨人に勝って日本一になる。

 この晩、眠らなかった男がもう一人いた。仁村薫である。天井が吹き抜けのホテルの3階の部屋から何度も廊下に出てきて、遠くからてるてる坊主を拝んでいた。翌日、オーランドは晴れた。最終戦を戦え、いい別れができたMVPは、てるてる坊主である。

 本田は故人となったが、令息本田英志(豊田西高、中央大)がプロ野球審判員を務めている。いいジャッジをしている。疾走も見事である。

 福田功は名古屋市郊外の町で自適の毎日だが、コロナが収まり、恩師郡山高監督森本達幸(関大)を訪ねる日が来るのを待っている。森本は「夏」が終わると日付が替わる午前4時半まで起きている。受験勉強中の教え子に「眠いだろうけど頑張れよ」と、次々に電話をし、励ましている。まさに名将である。

 =敬称略=