【久保康生 魔改造の手腕(36)】2017年オフ、阪神を去ることになりました。心残りがたくさんありました。11年オフのように自ら退団したわけではなく、指導の途上だった若手投手を放り出すような形になり残念でした。

 そういった中で特に心に引っかかっているのは、藤浪晋太郎の存在です。17年の藤浪は苦しんでいました。開幕から7試合に登板時点で36個の四死球を与えるなど、制球難に悩んでいました。

 5月27日に登録抹消されるのですが、不調による再調整という形での二軍落ちはプロ5年目で初の出来事でした。

 私は13年に阪神のコーチに復帰してから、ファームでの育成や調子を落とした戦力の再調整を担う立場にありました。大阪桐蔭から入団し、1年目の13年から3年連続2桁勝利を挙げていた藤浪とは接点はありませんでした。

 その藤浪が二軍に合流してきました。遠征中でしたので現地に呼び寄せて。今後についてのディスカッションをさせてもらいました。

 一軍では首脳陣と衝突があったような話を聞いていました。どういう心理状況なのか懸念はありましたが、話してみると意外にさっぱりした顔をしていた印象です。腐ったようなそぶりもなく、前向きでやる気も感じられました。

 これはいけるかもしれない。そう思った私はまず、精神的な接点をしっかり結びたいと考えました。こういったアプローチは私が引退後にコーチとなった直後、大塚晶文や岩隈久志に接したプロセスと同じです。

 遠征先から帰阪する日曜日でした。空港で藤浪に声をかけ、シーズン中ではあったのですが、休日となる翌日、月曜日にゴルフに誘いました。私の双子の娘でプロゴルファーの啓子、宣子が大阪に滞在中というタイミングでもありました。

 シーズン中に選手とラウンドするというのはもちろんダメな行為です。それを分かった上での、あえての行動でした。私の中では賭けでした。藤浪再生のため、本人との関係性を深めようと考えました。お前にかけるぞという、一蓮托生の中で危ない橋を渡るという強い覚悟を藤浪に感じてもらおうと思っていました。

 以前、球団のオフの行事で藤浪とはゴルフをラウンドしたことがありました。そこでゴルフ好きであることは知っていました。これをきっかけに精神的なつながりを築き、覚悟を持って藤浪を戦力として作り直そう。そう考えて誘いをかけました。

 本人からは「はい、行きます」とキッパリ二つ返事でした。私は信頼のおけるゴルフ場の支配人と連絡を取り、目立たないようプレーを手配してもらいました。クラブハウスを経由せず、そのままコースに出て、朝のトップでラウンド。昼食も現地では取らず、妻に段取りを任せて、私の自宅でバーベキューをする形を取りました。

 朝からのラウンドを終え、食事をし、二軍再調整に至る話などさせてもらいました。

 金本監督は不調の藤浪に立腹。今後のことを2人で話し合い、説得に応じ二軍調整をする流れになった。当時のスポーツ紙の報道にはそう書かれていました。ですが、事実ではない部分もあったようです。

 事実は一つです。それは当事者たちの心にあるでしょう。私がその真相を暴くつもりなどありません。この先の目的は藤浪をいかに復活させて、チームの戦力として作り直すかということです。

 ただ、投手コーチとしての私の思いが具現化することはありませんでした。

 ☆くぼ・やすお 1958年4月8日、福岡県生まれ。柳川商高では2年の選抜、3年の夏に甲子園を経験。76年近鉄のドラフト1位でプロ入りした。80年にプロ初勝利を挙げるなど8勝3セーブでリーグ優勝に貢献。82年は自己最多の12勝をマーク。88年途中に阪神へ移籍。96年、近鉄に復帰し97年限りで現役引退。その後は近鉄、阪神、ソフトバンク、韓国・斗山で投手コーチを務めた。元MLBの大塚晶文、岩隈久志らを育成した手腕は球界では評判。現在は大和高田クラブのアドバイザーを務める。NPB通算71勝62敗30セーブ、防御率4.32。