【久保康生 魔改造の手腕(39)】2017年オフに阪神を離れ、そのままソフトバンクに招いていただきました。

 当時、編成・育成部長で18年から二軍監督になることが決まっていた小川一夫さん(ソフトバンク・GM補佐兼企画調査部アドバイザー)に、13、15年のそれぞれドラフト1位の加治屋蓮、高橋純平を看板選手とする使命を与えられました。

 17年秋季キャンプで初めて見た時、2人ともにキャッチボールが非常に良くなかった印象が強いですね。即座に注文をつけさせてもらいました。

 特に純平のキャッチボールがひどかったです。私の理論ではオーバーハンドで右ヒザが地面につく投手というのはかなり稀有な部類となります。元日本ハムの武田久などがそうです。ボールは上から下に投げるもの。あんなに右腰が落ちてしまっていてはボールが下から上に出てしまう形となり、地球の引力を利用した投球ができません。

 人は力をためようとする時、ヒザを曲げて体を沈めてしまいがちです。一見、力感があるように見えますが、軸足を折り曲げてはいけません。上から下へ自然に下りていくパワーを逃がしてしまうことになります。

 重心を下げて、下げてから投げ上げようとすると、リリースポイントから投球が吹き上がっていきます。ボールは自然と上から下に落ちながら進みますので、これでは角度をつけて低めに投げることが絶対にできません。

 純平も本当に良かれと思ってそれまでの練習を積み重ねてきたと思います。でも、結果が出ないなら既成概念から抜け出さないといけない。3年も4年も活躍できないなら、もうその時期に来てることに気づかないといけない。

 純平には30センチほどの高さの踏み出しを前に置いて、上からタオルで叩くことを繰り返してもらいました。軸足の右ヒザを折らず、とにかく上から叩く。極端な練習を重ねさせました。本人が「本当にこんなんでいいんですか?」と聞いてくるほど、極端に取り組んでもらいました。

 練習もよくさせました。その結果、体力もつきました。小川二軍監督に無理言って使いに使いました。「ウエスタン・リーグとはいえ、あんまり試合を壊してしまわんでくれよ」と言われたこともあります。誰が見ても降板という場面でも、純平が目に涙を浮かべても、マウンドから決して逃がしませんでした。

 二軍のブルペンの練習場にお金が落ちている。どれだけ長いことその場に居れるのか。ずっと傾斜の上に居れと言ったのを覚えています。

 19年に純平は結果を出してくれました。45試合で3勝17ホールド、防御率2・65。県立岐阜商業のエースとして甲子園で大活躍したスターです。地元の家族や仲間に活躍を喜んでもらえたことでしょう。

 一方の加治屋は秋季キャンプでの指導から即、劇的な変身を遂げてくれました。18年シーズンに即、セットアッパーとして定着し球宴にも出場。シーズン最多登板の球団タイ記録の72試合に登板し4勝3敗31ホールド、防御率3・38と結果を残しました。

 社会人出身でプロ5年目とあって焦りもあったことでしょう。私としては加冶屋のことは阪神の二軍コーチとして見ていましたから、こう変えればいいのになあというプランがありました。加治屋の球筋は角度がなく非常にフラットで、もったいないなと思っていました。私のメソッドを即座に吸収してくれて、ドラ1として輝いてくれました。

 ファームから一軍に人材を供給してチームの勝利に貢献してもらえる。これはコーチ冥利に尽きます。本当に選手たちに感謝です。

 ☆くぼ・やすお 1958年4月8日、福岡県生まれ。柳川商高では2年の選抜、3年の夏に甲子園を経験。76年近鉄のドラフト1位でプロ入りした。80年にプロ初勝利を挙げるなど8勝3セーブでリーグ優勝に貢献。82年は自己最多の12勝をマーク。88年途中に阪神へ移籍。96年、近鉄に復帰し97年限りで現役引退。その後は近鉄、阪神、ソフトバンク、韓国・斗山で投手コーチを務めた。元MLBの大塚晶文、岩隈久志らを育成した手腕は球界では評判。現在は大和高田クラブのアドバイザーを務める。NPB通算71勝62敗30セーブ、防御率4.32。