【久保康生 魔改造の手腕(41)】カズ山本こと山本和範さんを覚えているオールドファンは多いでしょう。私とは同郷で福岡県出身。1976年ドラフト同期で、近鉄入団発表のときは一緒にお互いの両親と新幹線で大阪に向かいました。

 実は76年の近鉄はドラフトで6人指名するも、3人しか入団せず寂しい会見でした。その際、山本さんのご両親から、あるお願いをされていました。「うちの子は難聴で耳の聞こえが良くないので、記者さんに質問を受けたら、隣から聞こえるように和範に伝えてあげてもらえますか」。そうだったんだ…と思ったことを今も覚えています。

 そこからお付き合いが始まり、入寮する時も2人で大阪に向かいました。始まりからずっと一緒でした。私が結婚した6年目、82年オフに山本さんは戦力外通告を受けました。新婚旅行から帰ってきた直後だったでしょうか。山本さんから電話がかかってきて「故郷に帰るわ」と連絡がありました。

 いや、ダメだ。帰るのは待ってほしい。まだ現役を続けてほしい一心で引き留めました。でも、住む場所もない。そこでどうしたかというと、何と新婚10日目くらいの私たちの新居に居候することになったんです。おかしな3人暮らしのスタートです。今でも妻には感謝です。いきなりそんなことを気持ちよく受け入れてくれたんですから。

 僕が藤井寺で練習しているときには、山本さんが「何もせんわけにはいかん」と家の買い物を手伝ってくれたそうです。あのコワモテで、当時20歳だった妻の後ろを荷物を持ってついていく。異様な雰囲気ですよ。極妻みたいに思われたかもしれませんね(笑い)。

 ただ、いつまでもそんな生活は続けられません。そこで、私がお世話になっていた近畿クレスコの堀川三郎会長の助けを借り、山本さんにバッティングセンターでの住み込みの仕事を紹介させてもらいました。

 野球教室もできて、住む場所、練習場所も確保できる。そこから山本さんは南海ホークスに入団しました。当時の穴吹監督は二軍監督時代に山本さんの実力に気付いていたのです。

 その後の活躍は皆の知るところでしょう。本当に勝負強い打者で記憶に残るプレーヤーでした。プロ通算1400安打、初安打と最終安打が本塁打。ダイエー時代の94年はイチローに次ぐ打率2位で年俸2億円にまで届きました。96年には近鉄に戻り、同年の球宴第1戦では古巣・福岡ドームで3ランを放ってMVPに輝きました。2度の戦力外通告を受けながら通算23年、実働19年で99年に引退。あの時、故郷に帰らなくて本当によかったです。

 若かりし日は藤井寺でよく2人で練習したものです。内角を打つのがうまくてね。ベースに思い切り近づいて、足を上げるとラインをまたいでしまっている。それで、その足を狙ってね。ぶつけてしまっては「そんな近くに立つからやん」と文句言いながらね。楽しい日々でした。

 85年5月23日の近鉄―ダイエー戦では、先制2ランを献上しました。いつも「お前は恩人や」と言ってくれる山本さんからの恩返しでした。死に物狂いのハングリーさが伝わる苦労人というのか。何とかその座をつかもうという姿が集約された素晴らしい選手でした。

 次回は私が2000安打目を許した大打者について話させていただきます。

 ☆くぼ・やすお 1958年4月8日、福岡県生まれ。柳川商高では2年の選抜、3年の夏に甲子園を経験。76年近鉄のドラフト1位でプロ入りした。80年にプロ初勝利を挙げるなど8勝3セーブでリーグ優勝に貢献。82年は自己最多の12勝をマーク。88年途中に阪神へ移籍。96年、近鉄に復帰し97年限りで現役引退。その後は近鉄、阪神、ソフトバンク、韓国・斗山で投手コーチを務めた。元MLBの大塚晶文、岩隈久志らを育成した手腕は球界では評判。現在は大和高田クラブのアドバイザーを務める。NPB通算71勝62敗30セーブ、防御率4.32。