【柏原純一「烈眼」】何かと話題の日本ハム・新庄剛志監督は初の対外試合となった8日の阪神との練習試合を勝利で飾った。彼の古巣でもある阪神とは11日にも日本ハムのキャンプ地・名護で〝リターンマッチ〟が組まれており、再び注目の一戦となることなるだろう。

 同日は一昨年に他界したの命日でもある。野村さんは私にとっても新庄監督にとっても恩師であり、どうしても「野村さんが今もお元気だったら、監督となった新庄に何を言うんだろうか?」と考えてしまう。おそらく野村さんなら「お前のような選手をつくってみい!」と言うのではないだろうか。

 阪神時代、特に若いころの選手・新庄は、今のように何をしでかすか分からない破天荒なプレースタイルではなかった。むしろ、その逆。打席内で結果やその後の評価を気にするあまり「相手ではなく、ベンチと戦ってしまう選手」の代表格でもあった。

 私が野村監督の下で阪神の一軍打撃コーチを務めることになったのは1999年で、既に新庄は一軍に定着していた。それでも最初のころは指示が出ることのないイニングの先頭打者でも、新庄は一球一球、私や野村さんの座るベンチを見てきた。その度に私は両手で「マル」のポーズをつくり「打っていいぞ!」のサインを出していた。それほど彼は〝萎縮して〟野球をやっていた。

 持っている能力は素晴らしいのに、それを外的な要因で出しきれずにいる。そう判断した野村監督は、打撃コーチの私に「新庄にはセオリーでは『待て』の場面でも『打ってOK』のサインを」と言い、私も視線を向けてくる新庄にGOサインを出し続けた。

 次第に彼も意図をくみ取ってくれるようになった。まずは自分の能力を出しきり、ベンチではなく相手投手との勝負に自分の内面を注ぎこむようになると、ベンチを見る仕草も徐々に減っていった。99年6月12日の巨人戦での「敬遠球サヨナラ安打」は、そんな当時の彼が抱えていた〝不要な一面〟を完全に克服した象徴的な事例でもある。

 劇打が出る前から彼は私の近くに来て「敬遠の場合、打てそうなら打ってもいいですか?」と言うまでになっていた。私が野村監督に「新庄がこんなこと言っていますが?」と相談しに行くと、監督は「あの目立ちたがり屋め!」と言いながらも、うれしそうな顔をしていたのを覚えている。誰かの顔色を伺って、プレーをしていたかつての面影は、もう顔を出すこともなくなった。

 そんな彼が時を経て、今度は選手を導く立場になった。日本ハムにも野村佑希や万波中正など、将来有望な20代前半の選手が多くいる。人並外れた身体能力を誇る新庄監督とて、最初から何もかもできたわけではない。もがき苦しんだ末に真のスターへと成長したビッグボスだからこそ、選手がどこでつまずくかも分かっているはずだ。誰が「新庄2世」として頭角を現すか、楽しみにしている。

(野球評論家)