【長嶋清幸 ゼロの勝負師(10)】 若手時代に誰の背中を見ていたかといえば、高橋慶彦さん。同じ寮に住んでいたけど、ほとんど寮に帰ってこなくて、なかなか会えない。プロでスターになるには…ということを見て学んだ。

 いくら遊んでも絶対に練習を怠らない。例えば夕方6時半から食事に行く約束があったら、6時までは室内でバッティングして、シャワーを浴びて出ていく。出かける時は俺らが「高橋さん、いいですよ」ってボール拾いをやって、その後で俺らがバッティングをやる。それまでは全部自分で片づけていたし、俺らに「拾っとけ」なんて言ったことないよ。

 あれだけのスターでもこれだけやらなきゃスターになれない。入団して3年間、一生懸命やってダメならやめようと思っていたけど、慶彦さんを見て「これが努力かな」と思った。背中で語ってくれた。死ぬ思いで練習してスイッチヒッターになった人だからね。その後、一緒に行動するようになるのは一軍で結果を出せるようになって「こいつ、チャンスに強いな」と思ってくれてからだと思う。人を引き付ける独特なオーラがあるし、容姿もかっこいい。同じようになんておこがましいし、一緒にプレーできることがうれしかった。

 でも…若手のころは寮に帰ると正座で説教させられたこともある。大した理由でもないのにゴミ箱でしばかれたり、みんなビビっていたよ。高校でそんなのには慣れていたけど、プロでもこんなのあるんだって思った。

 慶彦さんは人脈もすごくてね。飲みに行った先で「こいつはウチの長嶋といいます。よろしくお願いします」って自分のことのようにいろんな人に紹介してくれる。テレビ局の人とか芸能関係の人とか、知り合いの社長さんとか、遠征に行ったら1回は連れていってくれる。行きつけの店に行って「マメ、困ったらこの店で飲めよ」ってね。誰もが知っているような女優さんにもお会いしましたね。

 まあ、女性にもモテましたよ。遠征中、慶彦さんの部屋の電話番が俺の仕事。慶彦さんにかかった電話に出て「いつも慶彦がお世話になってます。今、ちょっと席を外しております」って対応する。夜に帰ったら「おい、誰か電話あったか」って。球界だけでなく、芸能界、財界と顔が広いので、おかげで視野が広がった。いい思いも…いやいや、しましたよ。

「マメ」というニックネームも慶彦さんが付けた。最初は大下剛史コーチが「お前、小さいけどマメタンクみたいな体しよるな」って言い始めたんだけど、「マメタンク」は長いということになって、それで慶彦さんが「マメでええやろ」って。後輩は「マメさん」って呼んで、おかげで多くの人に認識してもらってファンにも親しみを持ってもらった。慶彦さんには本当に感謝だし、プロというものを教えてもらった。でも、後年にとんでもない事件もあった…。

 ☆ながしま・きよゆき 1961年11月12日、静岡県浜岡町(現御前崎市)出身。静岡県自動車工業高から79年ドラフト外で広島入団。83年に背番号0をつけて外野のレギュラーに定着し、ダイヤモンドグラブ賞を受賞。84年9月15、16日の巨人戦では2戦連続のサヨナラ本塁打を放って優勝に貢献し、阪急との日本シリーズでは3本塁打、10打点の活躍でMVPに輝く。91年に中日にトレード移籍。93年にロッテ、94年から阪神でプレーし、97年に引退。その後は阪神、中日、三星(韓国)、ロッテでコーチを続けた。2020年に愛知のカレー店「元祖台湾カレー」のオーナーとなる。