【長嶋清幸 ゼロの勝負師(16)】山本浩二監督1年目の1989年のオフ、俺がずっと慕っていた高橋慶彦さんがトレードで放出された。伏線は2年前だった。87年の開幕2日前、地元でチームの激励会があった。毎年あったもので、やってくれるのはありがたいんだけど、その年の開催は開幕直前。それで慶彦さんが「なんでこんな時期にやるのか」と男気を見せてフロントに異を唱え、激励会に参加しなかった。

 やる、やらないではなく、時期の問題だし、みんなが思っていたことを代弁しただけ。でもそれが、けしからんとなって慶彦さんは2週間の謹慎処分になった。「なんでだ!」って、みんな思った一方で「あの人がこんな目に遭うんなら俺らが言ったらクビだな」っていうのもあって…。89年、慶彦さんはロッテにトレードされるんだけど、原因は間違いなくそれだよ。

 衣笠祥雄さんにしても87年を最後に引退し、その後は一度もユニホームを着なかった。古葉竹識さんがやめた時(85年オフ)もお先真っ暗だったけど、思ったのは「監督でもオーナーなわけではない」ということ。永遠には続かないし、俺らもいつかは辞めるんだなあっていうね。

 監督によって生きる選手もいれば死ぬ選手も出てくる。どの時代にもあるし、すべての選手が幸せになれるわけではない。浩二さんには大きな借りを返せなかった。自分自身の汚点というか、力になれなかったのが情けなかった。就任前、浩二さんは俺ら10人くらいを呼んで一人ひとりに打順を伝えた。俺には「3番を任すから」と言ってくれて意気に感じた。

 古葉さん、慶彦さんと同じくらいお世話になった恩人だし、若手のころの俺を見て、打撃練習のメインの組に推薦してくれた人。現役を一緒にやらせてもらい、酸いも甘いも分かっている。そんな人が期待して決断してくれたのに応えられなかった。オフに慶彦さんもいなくなり、苦楽をともにしたメンバーが薄くなってきて、時代が移り変わり、自分が若いやつを面倒見なきゃいけないような状況にもなって…。

 89年が打率2割5分9厘、1990年が2割7分7厘。打撃コーチだった水谷実雄さんの理論と合わなかった。若い時にお世話になった先輩だし、人間的にどうこうではなく、打撃理論が受け入れられなくて難しかった。そのうち「もう好きにしろ」みたいになって…。浩二さんが唯一信頼している人だし、現役時代は不調の時に水谷さんにアドバイスをもらっていたほど。それほど技術論はすごい。でも、すごく難しくて、自分の打撃がおかしくなり、取り返しがつかなくなった。このままだとダメになる…。

 選手とコーチに合う、合わないはある。その時代はほとんど強制。嫌々やっていたら選手は伸びないし、絶対に前に進まない。それでもやらないといけなかった。自分の立ち位置が微妙になってきた90年、ある新人が一軍にきた。

 ☆ながしま・きよゆき 1961年11月12日、静岡県浜岡町(現御前崎市)出身。静岡県自動車工業高から79年ドラフト外で広島入団。83年に背番号0をつけて外野のレギュラーに定着し、ダイヤモンドグラブ賞を受賞。84年9月15、16日の巨人戦では2戦連続のサヨナラ本塁打を放って優勝に貢献し、阪急との日本シリーズでは3本塁打、10打点の活躍でMVPに輝く。91年に中日にトレード移籍。93年にロッテ、94年から阪神でプレーし、97年に引退。その後は阪神、中日、三星(韓国)、ロッテでコーチを続けた。2020年に愛知のカレー店「元祖台湾カレー」のオーナーとなる。