【長嶋清幸 ゼロの勝負師(17)】山本浩二監督が信頼する水谷実雄コーチの打撃理論を何とかして吸収したかった。でも、難しくてできない。やっても自分の感覚と全然違うもので、もう取り返しがつかなくなっていた。元の自分がどこ行ったのか分からないし、アドバイスをくれる人もいない。水谷コーチは「好きにせえ」ってなるし、苦悩の2年間だった。

 後年、自分がコーチをやらせてもらった時には「こっちの言うことが100%じゃない」ということを経験として伝えるようにした。逃げ道じゃなくてね。コツをつかむきっかけをいかにコーチが誘導できるか。体力のない子にバットを振らすのは無理やりでもいい。ある程度、技術がついてきた子にはそうじゃなくて、よりいい方向に導くこと。そこで合う、合わないは自分で決めなきゃいけないよ、と。

 キャンプの臨時コーチで来られていた“かっぱえびせん”と言われた山内一弘さんの理論もすごかったけど、できない。こんな簡単な?って思うことが実戦ではできない。山内理論で成功したのは、高橋慶彦さんと衣笠祥雄さんくらいじゃないかな。慶彦さんは1982年に6本塁打だったのが83年には24本になったし、衣笠さんも打率と打点がグンと伸びた。

 広島最後の2年間は、ちょっとしたことが欲しかっただけなのに、今までやってきたことをゼロにされ、また1からやらされた格好。何年もレギュラーとしてやってきて振る力もあったし、本当は最後の8、9、10くらいの3つくらいが欲しかった。そこがあればもっとチームに貢献できると思っていたのに、それがシーズンで3、4くらいに減ってしまい…。一線級の投手とでは勝負できないよ。

 このままいったらやばい、という危機感があった。一方で自分の場合は浩二さんにとって打つ、走る、守るで使い勝手がいい。レギュラーを外れても頭の中で俺をトレードに出すなんていう頭はなかったと思う。

 そんなころ、前田智徳という新人が台頭してきていた。なぜか分からないけど、高卒1年目で一軍帯同になった。あのころのカープは成績がダメなら二軍、二軍で成績が上がってきたら一軍、という具合にメリハリがあって、分かりやすかったし、だから頑張れた。なのに…なんでかな。同じ外野手といっても高卒新人に抜かれるとかいう考えは、俺の中に全くなかった。彼に対して特に何にも思わなかったし、他の外野手で「この人には負けるかもしれん」と思わせる人は何人もいたしね。まだ線が細かったし、すごい素材には見えんかった。

 俺は中堅選手くらいになっていて、周りの球団関係者もいろいろ言ってくる。そんな時に「前田はあいさつをしない。本人に注意しといてくれ」と…。これが俺のトレードにかかわる“事件”になっていく。

 ☆ながしま・きよゆき 1961年11月12日、静岡県浜岡町(現御前崎市)出身。静岡県自動車工業高から79年ドラフト外で広島入団。83年に背番号0をつけて外野のレギュラーに定着し、ダイヤモンドグラブ賞を受賞。84年9月15、16日の巨人戦では2戦連続のサヨナラ本塁打を放って優勝に貢献し、阪急との日本シリーズでは3本塁打、10打点の活躍でMVPに輝く。91年に中日にトレード移籍。93年にロッテ、94年から阪神でプレーし、97年に引退。その後は阪神、中日、三星(韓国)、ロッテでコーチを続けた。2020年に愛知のカレー店「元祖台湾カレー」のオーナーとなる。