【取材の裏側 現場ノート】ロシア・モスクワで行われた2010年9月のレスリング世界選手権は、強大なオーラを放つ〝怪物〟たちが一堂に会した。同時期にモスクワ入りしていた森喜朗元首相が初のレスリング観戦に来場。また、同年2月に引退を発表した元横綱朝青龍も、連日モンゴルや日本勢の熱戦を見守った。地元ロシアからは、グレコローマン最重量級で五輪3連覇、霊長類最強の男アレクサンダー・カレリン氏が観戦。マット外にも興味深い顔ぶれが揃った。

 元横綱朝青龍は、記者のインタビューに快く応じ「世界中から格闘技の猛者を集めて世界最強トーナメントを開きたい」などと、夢を語ってくれた。カレリン氏は、話を聞きたいと願い出る記者に、ニコリともせず「後で」と一言。難しそうだなと思っていたら、1時間後、たった一人で記者のところに来て丁寧に話をしてくれた。

 日本選手の活躍もあり、話題豊富な大会だったと充実感を感じながら迎えた最終日。モスクワにもう一人、強大な怪物がいたことを思い知らされた。

 試合会場で1980年モスクワ五輪施設の一つだったオリンピスキ・スポーツコンプレックスの広大な敷地には、かなりの数の路上生活者がいた。異国からやってきたであろう風貌の家族連れも多かった。市内中心部のグム百貨店やアルバート通の華やかさとは一変する雰囲気に、ロシアの別の顔を感じながら、毎日彼らの中を通り抜け、会場入りしていた。

 しかし、最終日だけ姿がまったく見えない。あれだけの数の人間がどこへ消えてしまったのか。変化に不思議に思い、地元関係者に聞いてみた。すると「プーチンが隣に来るからね」。同じ敷地にある、レスリング会場隣の施設に来場するプーチン首相(当時)の目に触れぬよう、路上生活者たちを移動させたというわけだ。

 どの国でも外賓や国際イベントを開く際には、安全面も考慮し、多かれ少なかれ類似のケースはあるだろう。しかしこの時ロシアは、外賓や国際イベント関係者よりも、プーチン氏に体裁を取り繕い、ご機嫌をうかがったことになる。同氏が持つ強大な権力の一片を垣間見た日。ウクライナ侵攻で連日非道さが報じられる中、あの記憶がよみがえった。

(一般スポーツ担当・中村亜希子)