【長嶋清幸 ゼロの勝負師(20)】1990年オフに広島から中日にトレード移籍。星野仙一監督の参謀役に作戦コーチの島野育夫さんがいて、やさしくしてもらった。島野さんも口ベタなので、きれいなことは言わないけど「大丈夫や」という気持ちがこもっている。長嶋茂雄さんと少し似てるところがある。星野さんが熱い半面、島野さんは落ち着いていたね。

「6番・センター」で開幕スタメン。星野さんを男にしようと思って頑張っていたのに、6月8日の横浜大洋戦(札幌)でプロ生活にかかわるくらいのアクシデントに見舞われた。就任5年目の星野さんはそれまで円山球場で一度も勝ったことがなかった。それを気にしていたのか、いきなり外出禁止。それはまあ仕方がない。俺って広島時代は札幌遠征がすごく調子よくて、寝ないで出てもホームランとか。円山が相性いいからいけるんじゃないか、星野さんに初勝利だって思っていた。

 横浜はパチョレック、ポンセ、高木豊さん、屋鋪要さんがいて、投手は斉藤明夫さん、遠藤一彦さんとか。でも後ろの投手が弱かった。その日は俺が2本塁打、大豊泰昭も2発で、これは初勝利をプレゼントできると思った。ところが、楽勝ムードが9回に雲行きが変わる。横浜のクリーンアップが3連続ポテンヒット。最初がショート、レフト、センターの間にポテン。次がショート、セカンド、センターの間にポトリ。次のパチョレックの打球が俺のいるセンター、ライト、セカンドの間に上がった。なんとか阻止しようと前に走ったら、セカンドの種田仁が猪突猛進で全くこっちを見ていない。死んでも捕ろうというくらいに来ていたから、これはぶつかると思って、ギリギリで俺が回避して体を反転させた。

 そうしたら円山球場の硬い土にスパイクだけ刺さった状態でヒザだけぐにっと曲がった。ヒザから下が動くと思っていたら動かず、ヒザから上だけが動いてた。もうヒザ下がなくなった感覚。激痛で息ができず、ベンチから来た大豊におんぶしてもらって下がった。すぐに救急病院に行ったら、見てくれた先生が「もう野球はできんな。これは引退しかないぞ…」って。マジか、これで俺の野球人生も終わった、と思った。

 右ヒザ靱帯と半月板の損傷。試合は9―8で勝ったけど、代償があまりに大きい。松葉杖をついて飛行機で帰り、それから歩行できるまで半年以上かかった。当然シーズンは棒に振った。チームも夏場までは首位独走していたのに、最後に広島に逆転されて2位。

 その後にセンターに入っていた彦野利勝もサヨナラ本塁打を放って一塁を回った時に転倒し、右ヒザ靱帯を断裂。星野さんに「センターがしっかりしたら優勝できる」と言われて中日に来たのに2人続けて大ケガ。星野さんは責任を取って辞任し、保守派の高木守道さんが監督になられた。そして今度は落合博満さんと…。

 ☆ながしま・きよゆき 1961年11月12日、静岡県浜岡町(現御前崎市)出身。静岡県自動車工業高から79年ドラフト外で広島入団。83年に背番号0をつけて外野のレギュラーに定着し、ダイヤモンドグラブ賞を受賞。84年9月15、16日の巨人戦では2戦連続のサヨナラ本塁打を放って優勝に貢献し、阪急との日本シリーズでは3本塁打、10打点の活躍でMVPに輝く。91年に中日にトレード移籍。93年にロッテ、94年から阪神でプレーし、97年に引退。その後は阪神、中日、三星(韓国)、ロッテでコーチを続けた。2020年に愛知のカレー店「元祖台湾カレー」のオーナーとなる。