〝平成の三四郎〟の愛称で親しまれた1992年バルセロナ五輪男子71キロ級金メダルの故古賀稔彦さん(享年53)が亡くなってから、24日で1年がたった。「柔道界のカリスマ」の早すぎる別れにいまだ悲しみの声が上がる中、古賀さんの弟分で同五輪男子78キロ級金メダルの吉田秀彦氏(52=パーク24総監督)が本紙の取材に応じ、この1年を回想。葬儀時に抱いた葛藤、昨夏の東京五輪で後輩たちに託した〝古賀魂〟など、弟分ならではの秘話を包み隠さず明かしてくれた。

 ――12日に一周忌の法要が行われた

 吉田氏(以下吉田)身内だけでしたが、30人くらいが集まりました。酒友会(※)のメンバーと息子たちの同級生が来てくれました。何か改めて…亡くなりましたけど、まだ信じられない感じがしますし、1年は早いですね。

 ――そこではどのような話を

 吉田 古賀先輩は(静岡の)南伊豆に別荘があったので「みんなで行かなきゃ」という話はしました。散骨しに行こうと。南伊豆では古賀米がつくられていて(古賀さんの)先輩で、すごく管理をしてくれている人がいるので(古賀さんの)奥さんも農地を借りて農業をやったりしています。(古賀米は)もらって食べたこともありますよ。

 ――葬儀前は酒友会のメンバーで準備をした

 吉田 葬儀や仏壇の手配まで、いろいろ準備をしましたね。みんな一生懸命やっていましたが、よく考えてみると「何でこんなことしているんだろう」って。古賀先輩とお別れをするために一生懸命やるのはいいのですが、やればやるほど、どんどん葬儀が近づいていくわけじゃないですか。お別れだという気持ちになっちゃうから、一生懸命やっているんだけど、寂しさがありました。

 ――葬儀時の展示室には多くの人が足を止めた

 吉田 あれも全部、自分たちでやりました。あの映像を作った先輩が、昔の映像を引っ張り出して、音楽も入れて、葬儀前に道場でやった試写会では、みんな泣いちゃいました(笑い)。玉置浩二さんとか選曲がまたいいわけですよ。他にもマネキンを借りてきて、道着を着させて、そういう準備とかも全員でやっていたので、今、考えるともう1年たってしまったことが不思議ですよね。

 ――東京五輪では古賀さん追悼モデルの時計を着用した選手たちが大躍進を見せた

 吉田 東京五輪中継の各競技で解説者がいろいろと決まっていましたが、古賀先輩が(亡くなり柔道中継の解説を)できなくなったので、代わりに僕がやることになったんですよ。そんな中で選手たちには、古賀先輩の思いを乗せて戦ってくれないかなと企画しました。あの白の「G―SHOCK」はカシオさんも協力してくださって、限定モデルで作りました。松岡修造さんもですし(全日本男子前監督の井上)康生とか、みんながつけてくれたので、よかったです。

 ――いつ企画したのか

 吉田 ふとひらめいて、カシオさんにご相談したら、コロナの影響でイベントに提供できなくなった時計がちょうど100本余ったのがあったんです。それで、ベルトにどういう文字を入れようとか、いろんな打ち合わせを重ねてできあがったのが東京五輪の2週間前でした。100個しかできなかったので、選手とトレーナーの分だけでしたが、みんなが頑張ってくれたのでよかったです。

 ――古賀さんの思いをどう未来につなげほしいか

 吉田 古賀先輩みたいな柔道をできる選手がなかなかいないので、古賀先輩みたいに一世風靡(ふうび)するような、技のキレる選手が出てきてほしいですよね。古賀先輩の思いは子供が3人いますので、引き継いで柔道界を盛り上げてくれるんじゃないですか。そして古賀塾が復活してほしいですね。

※「酒友会」は約30年以上前に、古賀さんと吉田氏が育った柔道私塾「講道学舎」(2015年3月に閉塾)と古賀さんの母校日体大柔道部のメンバーを中心に、現役時代に切磋琢磨した約20人で構成。定期的に集まり、食事会を開いてきたという。古賀さんの葬儀前には、ひつぎを囲みながら毎日のように酒を酌み交わし、思い出話に浸った。酒友会のメンバーは今でも固い絆で結ばれており、葬儀に向けては、それぞれで役割を分担して準備を進め、古賀さんを最高の形で天国へ送り出した。