【長嶋清幸 ゼロの勝負師(21)】1991年の中日は優勝を逃し、星野仙一監督が辞任。高木守道さんが監督に就任し、星野色を一掃する流れになった。5年にわたって指揮を執った星野さんの息がかかった選手がいるのは嫌だったんだろうね。「星野さんだから」中日に移籍したところもあったので「俺、どうなるん?」と思った。

 こっちは右膝靱帯と半月板の損傷を治すのにえらい時間がかかり、半年後の12月にやっと普通に歩けるようになって、年明け1月に評判のいい治療院に通いだした。ランニングができるようになり、練習ができるようになっても感覚は戻らない。ステップして打つ時が怖い。自分では大丈夫と思っていても足が拒否しちゃうような…。92年は開幕二軍スタート。ふと周りを見渡すと、みんな星野さんが獲得してきた選手ばかりで、えーっと思ったよ。あからさまだった。守道さんとは評論家をやられているころ、一緒にゴルフも行ってたんだけどなあ。

 それまで大きなケガをしたことがなく、野球人生のターニングポイントだった。広島時代は指を剥離骨折してめちゃ腫れて曲がらなくなっても、自分で「無理です」と言わない限り、トレーナーも黙っていてくれるし、古葉竹識監督は使ってくれた。俺も誰かがケガをしたことでチャンスをもらったし、自分がケガして休めば誰かにチャンスを与え、自分にマイナスになる。

 ヒザはある程度良くなっても元には戻らない。そんなある日、シーズン中に落合博満さんと宇野勝さんと遠征先の宿舎でいつものように円卓を囲んでいた。ビールを飲みながら落合さんが「今日のゲームでさ、あそこであれはねーわ! なあマメ!」って。近くに守道さんいるんだよ。もう勘弁してよって。

 落合さんは、星野さんがトレードで連れてきた人。最初は「星野さんのために」って思っていたと思うよね。星野さんも相当気を使っていたと思うけど、なかなか打たないから「いつまで待たせるんじゃ~!」ってブチ切れたらしい。落合さんもプレッシャーはかかっていたと思うし、その辺から関係がギクシャクしたのかもしれない。それでも星野さんを悪く言うようなことは聞いたことがなかったし、島野育夫コーチが間に入ってうまくやっていたと思う。

 それが、守道さんとは全然ダメ。起用法、野球のやり方や考えが違う。こうなったら負けるだろっていう。落合さんも勝つことに飢えていた。やるからには絶対に勝ちたいし、どうでもいい試合はあの人にない。ただ後年、監督になられてからは“捨てゲーム”があると言っていたね。序盤に大量点を取られると、コーチの俺らに「今日はゆっくり見とけ。選手休ましたろ」って。でも現役の時はまったくそんな考えはなかった。

 そんな落合さんの打撃は…もう練習から存在感が違う。俺らからすれば「神の領域」だったね。

 ☆ながしま・きよゆき 1961年11月12日、静岡県浜岡町(現御前崎市)出身。静岡県自動車工業高から79年ドラフト外で広島入団。83年に背番号0をつけて外野のレギュラーに定着し、ダイヤモンドグラブ賞を受賞。84年9月15、16日の巨人戦では2戦連続のサヨナラ本塁打を放って優勝に貢献し、阪急との日本シリーズでは3本塁打、10打点の活躍でMVPに輝く。91年に中日にトレード移籍。93年にロッテ、94年から阪神でプレーし、97年に引退。その後は阪神、中日、三星(韓国)、ロッテでコーチを続けた。2020年に愛知のカレー店「元祖台湾カレー」のオーナーとなる。