【長嶋清幸 ゼロの勝負師(27)】1999年から阪神の監督になられた野村克也さんは「野村の考え」を配ってミーティングを重ね、意識改革に乗り出した。でも、なかなか難しくて選手は理解できなかった。結局、野村さんが種をまいて肥やしをやって、次の人が花を咲かすという流れになる。桧山進次郎なんかは「あの時は何を言っているのか分からなかった。いなくなった後で、野村さんが言っていることはこういうことだったのか、と理解できるようになった」と言っていたよね。

 野村さんの中では種をやってすぐに花を咲かせてほしかったと思う。それが阪神ではうまくいかなかった。強くないチームだから、何かをやって注目を集めようという気持ちもあったと思う。視野が広く、懐が大きいから新庄剛志に投手をやらせたりもできるんだよ。

 野村さんとはよく話した。あの人は午後6時からのナイターが始まる6分くらい前までコーチ室にいる。他のコーチはグラウンドへ向かい、打撃コーチ補佐の俺はベンチに入らないからギリギリまでコーチ室にいて野村さんと2人だけ。今日の試合の話なんかまったくなくて世間話、昔話。たまに「今日の相手キャッチャーは誰やったかな」とか。

 試合後は2時間のコーチミーティングで、うち1時間40分は昔話。南海時代の話になって、当時を知る投手コーチの八木沢荘六さんや守備走塁コーチの福本豊さんを相手に「なあ六さん」「なあ福本」とか。早く帰りたくても、周りは「そうでしたなあ!」なんて言って。毎日そんな感じで、夜11時までに球場を出たことがない。コーヒーとフルーツのパパイアを食べながらね。難しい漢字を書いたり、意味が分からないから辞書引いたりしてね。勉強になったけど、みんなすごい疲れていたよ。

 沙知代夫人のこともよく言っていた。2人きりの時に「マメ、お前は自分の貯金を管理してるのか」と。「基本は全部嫁がやっています」と言うと「そうだよな…。俺は実を言うと、自分の口座がないんや。全部サッチーが握ってる。それで俺は言ったんだ。『もし、お前がどこかでポックリいって、通帳がどこにあるか分からなかったら、俺はどうやってお前の葬式をやったらいいんだ』って。そうしたらサッチーは『そんなもの関係ない。通帳も全部棺桶に入れて。あんたには一銭もやらないよ』って。こんなんだぞ。俺は何のために仕事してるんだか」とこぼしていた。

 そういうのを面白おかしく言うんだよ。おそらく「俺みたいなえらい監督でも、女房には頭が上がらない」みたいなことが、あの人の中では恥ずかしいことじゃない。野球関係者に何か言われたら「お前に言われる筋合いはねえ」って目の敵にするだろうけど、こと女性に弱いのは、あの人の中ではカッコ悪いことではなかったと思うね。

 そんな野村さんが、あるコーチにめっちゃ怒ったことがあった。あれにはビックリしたねえ。

 ☆ながしま・きよゆき 1961年11月12日、静岡県浜岡町(現御前崎市)出身。静岡県自動車工業高から79年ドラフト外で広島入団。83年に背番号0をつけて外野のレギュラーに定着し、ダイヤモンドグラブ賞を受賞。84年9月15、16日の巨人戦では2戦連続のサヨナラ本塁打を放って優勝に貢献し、阪急との日本シリーズでは3本塁打、10打点の活躍でMVPに輝く。91年に中日にトレード移籍。93年にロッテ、94年から阪神でプレーし、97年に引退。その後は阪神、中日、三星(韓国)、ロッテでコーチを続けた。2020年に愛知のカレー店「元祖台湾カレー」のオーナーとなる。