【長嶋清幸 ゼロの勝負師(28)】阪神のコーチ時代は野村克也監督の話し相手になった。沙知代夫人のこととか「ここまで聞いていいんかな」ということもよく話してくれた。若いころに女性と部屋にいたらサッチーが入ってきたとか、そんなこと俺に言うんかい、みたいな。それをうれしそうに話される。男は尻に敷かれるほうがいいんだぞっていうね。

 ただ、野村阪神は1999年から3年連続最下位。最後は奥さんの脱税問題で退団することになった。さすがに3年連続はこたえたと思う。もっと一緒にいて野球を勉強したかったね。あの人が喜ぶ顔をもっと見たかったし、ボヤキ節と機嫌悪そうな顔もね。俺もコーチとして野村さんと出会ってから選手の見方が変わった。「固定観念を捨てろ」「固定観念は悪」。外野しかできない、投手しかできない、じゃなく、すべてを見た時に可能性のあるほうに行かせないとダメだと。その後のコーチ人生の中でもずっとその考え方を持つようにしていた。弱者が強者に勝つためには知恵を使って工夫しないといけないということも。

 そんな野村さんがめちゃ怒ったことがあった。シーズン終盤のある試合で、三塁コーチの伊原春樹さんが勝手にサインを出しちゃった。自分の判断で出したもんだから、試合後のコーチ会議で野村さん、尋常じゃないくらい怒った。「野郎! てめえは監督か! 何様なんだ。何勝手にサイン出してんだ、どんな権限があるんだ、お前に!」って。

 伊原さん「はい、すいません」で終わり。野村さんもすごいけど、伊原さんもすげえなと思ったよ。もうビックリ。あの時の伊原さんはもう西武にコーチで復帰することが決まっていたみたい。自分はもう辞めるつもりだからできたんだろう。伊原さんもコミュニケーションをよく取れる人だし最初はいい関係だったのに、2000年の1年だけで辞めちゃった。飼い犬にかまれるじゃないけど、野村さんもまさかあんなことになるとは思わなかっただろうね。

 選手で主にボヤキのターゲットになっていたのは今岡誠だった。確かに俺らのやってきた野球観と彼の野球観は違った。それがチームにとってプラスなのか、マイナスなのかということ。なよなよして弱々しくて、もっとやればすごい選手になるのにって思っていた。野村さんもそういう目で見ていた。メンタルもそうだし、足が遅くてキレがあるように見えず、打撃も不器用だった。なんか広島の前田智徳に似ているようなところがあって、声が小さくて返事してるのかどうか分からない。やるべきことをやっているのか、ということで俺も怒ったことはあったね。

 彼は彼なりに考えていた。だから数年後に打点王、首位打者を取れたんだけど、当時はそんなふうには見えんかったよ。


 ☆ながしま・きよゆき 1961年11月12日、静岡県浜岡町(現御前崎市)出身。静岡県自動車工業高から79年ドラフト外で広島入団。83年に背番号0をつけて外野のレギュラーに定着し、ダイヤモンドグラブ賞を受賞。84年9月15、16日の巨人戦では2戦連続のサヨナラ本塁打を放って優勝に貢献し、阪急との日本シリーズでは3本塁打、10打点の活躍でMVPに輝く。91年に中日にトレード移籍。93年にロッテ、94年から阪神でプレーし、97年に引退。その後は阪神、中日、三星(韓国)、ロッテでコーチを続けた。2020年に愛知のカレー店「元祖台湾カレー」のオーナーとなる。