【長嶋清幸 ゼロの勝負師(30)】阪神時代の星野仙一監督と岡田二軍監督の関係は…星野さんが大人だったね。岡田さんの立場、性格をよく分かっていたからもめごとはなかったし、プライベートでゴルフに呼んだりしていた。岡田さんは「おっさんがよ~、付き合えって言うんや~」なんて言いながらも、うれしかったんだと思う。

 星野さん2年目の2003年、俺は一軍コーチになった。現役時代に中日で星野さんの一番怖い時を知っていたから、ずいぶんと穏やかになられていた。星野さんは選手に直接言うのは投手陣くらいで、野手のことは島野育夫ヘッドコーチを通じて言っていた。外野のポジショニングを監督に「どうしましょう」って聞くと「お前、何言うとるんだ。お前に任せているんだからお前がやれ。俺に聞くな」。失敗しようが何しようがいい、そこまで俺らに任せてくれているというね。

 外野手の赤星憲広は間髪を入れずに投げる時っていいボール投げるんだけど、間を空けると投げられなくなる。変なボールをとんでもないとこに投げた時、星野さんに「マメー! お前、そんなことやらせとんのか! 何やっとんや、ボケー」ってベンチでカミナリを落とされたことがあった。本人ではなく担当コーチに言う。怒った時の声がまたデカいんだ。

 同年は18年ぶりのリーグ優勝。でも、星野さんをもっと怒らせちゃったことがあってねえ…。外野手の浜中おさむの肩が抜けた時だ。打率3割以上ですごく調子がよかった浜ちゃんが二死から出塁し、フルカウント。けん制があるから気をつけろよって言っていたら、まんまと引っかかってアウトになった。その時、逆を突かれて手で帰塁して肩を負傷。診断結果が良くなかった。かといって一番打っているし、打撃のほうは何とかなるというから病院で検査しながら練習を続けた。

 肩がはまればキャッチボールもできるし、チームも自分も調子がいい。試合に出られないのはつらいので何とかして出してほしいと言ってきた。でも次に何かあったら手術になる。浜ちゃんは万が一、そうなっても悔いは残らない、と。監督に言ってくれとお願いされたのでその通りに話したら、星野さんも「それでええ」と…。

 ブルペンで投げ方を体に覚えさせた。絶対に違う投げ方をしないよう、ノックで来る日も来る日もクッションボールの処理の練習をして、肩が抜けない投げ方を繰り返した。仮に単打が二塁打、二塁打が三塁打になってもいいから、絶対に自分の投げる形になってから投げてくれと言っていた。

 打てる野手が少なくなっていた時だ。「浜ちゃん、試合行ってみるか」と。とにかく慌てず、自分の形を崩さないよう口を酸っぱくして右翼守備に送り出した。そうしたら試合で右翼線付近に打たれ、いきなり浜ちゃんがファンブル。慌てて下から投げてパーン。わちゃー、脱臼。島野さんが来て「マメ、監督が呼んどるぞ」って。
 
 ☆ながしま・きよゆき 1961年11月12日、静岡県浜岡町(現御前崎市)出身。静岡県自動車工業高から79年ドラフト外で広島入団。83年に背番号0をつけて外野のレギュラーに定着し、ダイヤモンドグラブ賞を受賞。84年9月15、16日の巨人戦では2戦連続のサヨナラ本塁打を放って優勝に貢献し、阪急との日本シリーズでは3本塁打、10打点の活躍でMVPに輝く。91年に中日にトレード移籍。93年にロッテ、94年から阪神でプレーし、97年に引退。その後は阪神、中日、三星(韓国)、ロッテでコーチを続けた。2020年に愛知のカレー店「元祖台湾カレー」のオーナーとなる。