【豊田誠佑 おちょうしもん奮闘記(5)】1977年の東京六大学春のリーグ戦で江川卓さんから8打数7安打を記録し、首位打者に輝いた俺は7月に米国で行われた日米大学野球の出場選手に選ばれた。エースの江川さんを中心に構成されたこのときの日本チームのメンバーはとにかくすごかった。投手陣は江川さんに加え、同じ明治の鹿取義隆や松沼雅之(東洋大)ら、捕手には中尾孝義(専大)、内野には石毛宏典(駒大)、外野にも石井昭男さん(東海大)など後にプロ野球で活躍した選手たちがズラリ。大学球界のスター選手が勢ぞろいしていた。

 そんな中、1年生でただ一人だけ選ばれたのが原辰徳(東海大)だった。甲子園で大活躍したスーパースターは大学入学後も1年から活躍し、日米野球に選ばれたのだけど、とにかくさわやかだったね。礼儀正しいし、言葉遣いもしっかりしている。実は俺の1つ上の兄貴は社会人の三菱自動車でプレーしていたんだけど日米大学野球の後、東海大と三菱自動車が練習試合をしたことがあったんだ。すると原は三菱ベンチまできて「豊田さんはいらっしゃいますか。日米野球では弟さんにお世話になりました」とあいさつに来たそうなんだよ。高校から甲子園で大活躍していたスーパースターがわざわざ相手のベンチまで足を運んで来てくれたんだから兄貴も感激してたね。すぐに原辰徳の大ファンになってたよ。

 そうそうたるメンバーが揃っていた日米大学野球だけど、俺も東京六大学の首位打者だ。他の選手に負けるつもりはなかった。このときは駒大の太田誠監督が指揮を執ったんだけど、最初は俺をレギュラーで使うつもりはなかったみたい。だけど練習試合から打ちまくったから試合でも2番・レフトで使ってもらった。

 日米大学野球はアメリカで7月2日から10日まで7試合が行われたけど野球の本場でプレーできるのはとにかくうれしかった。チームメートとも仲良くなって江川さんとも時間のあるときにはホテルでトランプをしたりして遊んだ。第6戦はロサンゼルスのドジャー・スタジアムで行われたんだけどこの試合はNHKで衛星中継された。それほど当時の大学野球は注目されていたんだよ。

 アメリカでも俺は絶好調。2勝5敗で米国に敗れはしたけどチャンスによく打っていたから敢闘賞をもらったんだ。表彰式ではでっかいトロフィーを渡された。大きすぎて日本に持って帰るのがたいへんだったよ。でも親にも喜んでもらえたし、いい思い出になったね。高校時代は甲子園でホームランを打つことができたし、大学では首位打者になって日米大学野球でも表彰された。そうなると今度はもっと上のレベルでやってみたいという気持ちが芽生えてきた。

 4年生になるといくつか社会人のチームから誘われたけど全部断った。プロ野球の世界に挑戦してみたい。そう思ってドラフトを待つことにした。ところがドラフト前日(1978年11月21日)にとんでもないことが起こった。日本中が大騒ぎとなった「空白の一日事件」だ――。

 ☆とよだ・せいすけ 1956年4月23日生まれ。東京都出身。日大三高では右翼手として74年春の選抜大会に出場。明治大学では77年の東京六大学春のリーグ戦で法政のエース・江川から8打数7安打と打ちまくり首位打者を獲得。「江川キラー」と呼ばれるようになる。78年オフにドラフト外で中日ドラゴンズに入団。内外野をこなせるバイプレーヤーとして活躍し82、88年のリーグ優勝に貢献した。88年に現役を引退後はコーチ、スカウト、昇竜館館長を務め2014年に退団。現在、名古屋市内で居酒屋「おちょうしもん」を経営している。