シグロ製作の劇映画では、東陽一監督との作品が最も多い。1992年公開の「橋のない川」から最近作「だれかの木琴」(2016年)まで、7本の作品をプロデュースしてきた。

 東監督作品との私の出会いは1971年まで遡る。熊本市内で土本典昭監督のドキュメンタリー映画「水俣―患者さんとその世界―」と、東監督の「やさしいにっぽん人」が同時上映されるという会があった。両作品とも、同じ東プロの作品だったことによる。

 当時水俣病の患者さんの支援活動に参加していた私は「水俣」の作品を目当てに会場に行ったのだが、そこで同時上映された東監督の劇映画に魅了された。あの頃の時代状況もあったのだろうと思うが、主演の緑魔子さんが歌う主題歌「やさしいにっぽん人」のソノシートを購入し、高校の昼休みに校内放送で流したことを記憶している。

 少し暗くて気だるい曲調の歌を、高校の昼食時間に流すというのも、当時一体何を考えていたのだろうと、自分でも可笑しく思い出す。以来、東監督の作品は逃さず観るようにしていた。

 90年に「橋のない川」製作の話が持ち上がった時、私の中では東監督以外に思い浮かばなかった。部落解放同盟と、当時堤清二氏が代表を務めていたセゾングループの西友との共同製作だったのだが、私にプロデューサーの依頼があったのだ。解放同盟に映画製作のための株式会社設立をお願いし、解放同盟の会社ガレリアと西友による共同製作の体制を整え、東宝に配給を依頼した。

 監督に東さんを指名し、原作者の住井すゑさんのお宅に一緒に挨拶に行った。「橋のない川」は、今井正監督による二部作として、1969年、70年に一度映画化されていた。そうした経緯もあり、住井さんから、リメイクに対していくらか厳しい発言があったことを覚えている。

 シナハン・ロケハンを経て、製作費は7億5000万円と決まった。ロケ地を奈良県と和歌山県に絞り込み、明治から大正時代の農村風景をなるべく忠実に再現するため、一町歩の水田を1年前から借り上げ、農業試験場から取り寄せた大正時代の稲の苗を植えてもらうことにした。

 物語の中心となる被差別部落へと続く橋は、奈良県の協力で撮影後も使える公共の橋として、新たに建設することになった。1年以上かけた準備期間を経て、半年間の撮影が始まった。

 ☆やまがみ・てつじろう 1954年、熊本県生まれ。86年「シグロ」を設立、代表就任。以来80本以上の劇映画、ドキュメンタリー映画を製作・配給。「絵の中のぼくの村」(96年)でベルリン国際映画祭銀熊賞受賞をはじめ、国内外の映画賞を多数受賞。主な作品に石原さとみ映画デビュー作「わたしのグランパ」(2003年)、「老人と海」「ハッシュ!」「松ヶ根乱射事件」「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」「沖縄 うりずんの雨」「だれかの木琴」「明日をへぐる」など。最新作「親密な他人」が公開中。