【多事蹴論(42)】日本代表の指揮官と司令塔の“抗争”を止めたのは伝説のキャプテンだった――。日本サッカー協会は1992年、日本代表にとって初めての外国人監督となるオランダ人のハンス・オフト氏を招聘した。94年米国W杯出場を目指し、本格的なチーム強化に取り組む中で、もっとも注目されたのはエースナンバー10を背負う司令塔のMFラモス瑠偉とオフト監督の微妙な関係だった。

 オフト監督は欧州スタイルのサッカーを構築するためイレブンに徹底した規律を求めて「アイコンタクト」「スモールフィールド」など基本を重視した。これにブラジル出身で読売クラブ(現東京V)でも南米スタイルを貫いてきたラモスは猛反発。自身の感性を生かした華麗なスルーパスやテクニックで攻撃陣をけん引しており、指揮官の方針に不満をくすぶらせていた。

 指揮官と司令塔の関係が改善されないまま本格始動したオフトジャパンは、エースFW三浦知良と司令塔のラモスが大車輪の活躍を見せてゴールを量産。チームも躍進し、米国W杯出場に向けて機運も高まっていたが、ラモスの不満は収まらなかった。メディアを通じて指揮官を痛烈批判すると、実力を評価していたオフト監督も「チームの規律を守れていない」と発言。不満分子として代表外しを示唆した。

 この状況を危惧したのはキャプテンのDF柱谷哲二だった。「闘将」と呼ばれるように激しいプレースタイルでチームをけん引する一方、非常に細かな気遣いも見せ、悩んでいる選手に声を掛けて相談に乗り、逆にイレブンに不満が充満していれば、首脳陣に意見することもいとわないなど、日本が勝利するために必要な手段を講じ、強烈な個性でリーダーシップを発揮していた。

 結果が出ることでピッチ内外でオフト監督への信頼が高まっていく中、日本代表が今後も勝ち続けるためには絶対的な技量を持つラモスの力は欠かせない。そこでキャプテンとして2人の関係改善に乗り出した。ラモスは後に「テツから『オフト監督の言うことが聞けないなら代表から出ていってくれ』と言われた。怖かったよ。でもボクのことを真剣に考えてくれて『チームに必要だし、サポートする』って。それで少し考え直したんですよ。ボクの恩人ですよ。柱谷哲二はすごい。本当にそう思う」と振り返っていた。

 指揮官と司令塔のわだかまりが消えたオフトジャパンは快進撃し、米国W杯アジア1次予選を突破。93年10月に行われた同W杯アジア最終予選は「ドーハの悲劇」と呼ばれるようにW杯初出場にあと一歩のところまで迫った。結果は残念なものだったが「闘将」の柱谷キャプテンがいなければ、ラモスの代表追放は避けられず、日本代表の強化にも大きな影響があったはずだ。