新日本プロレス合宿所の自室でくつろぐ坊主頭の3人の練習生。2段ベッドの上に腰掛けているのは20歳の蝶野正洋。下で寝転んでるのは21歳の武藤敬司。右は15歳の船木優治(現・誠勝)少年だ。

 今から37年前の昭和59年(1984年)5月4日に撮影されたひとコマだ。

 船木の入門はこの年の4月11日。武藤と蝶野は、それから10日後に2人そろって同日に入門した(〝闘魂三銃士〟のひとり橋本真也は、武藤・蝶野の1日前に入門していた)。

 ところで、柔道の猛者だった武藤は、それまで散々やってきた基礎体力のトレーニングを今さらながら道場で長時間やらされることに嫌気が差し、入門してすぐコーチの山本小鉄に「もう辞めたい」と直訴した。すると山本から「もう少し頑張れ」と慰留され、それがうれしくて辞めるのを踏みとどまり頑張れたと、何年か前にテレビ番組で語っていた。

 ベッドで横になる武藤が、入門2週間弱にもかかわらず、どことなく風格が備わっているように見えるのはそういったやり取りを経ていたからだろうか…。

 この年は、武藤らが入門したあとにユニバーサル(旧UWF)に藤原喜明、高田伸彦(後の延彦)が移籍。しばらくして長州力ら維新軍も新日本を離脱した。大量離脱で先輩の数が減り、その後の合宿生活はずいぶん気が楽になったようだ。

 一致団結を誓った神奈川・箱根湯本合宿(9月28日~)を経て、武藤は同年10月5日に埼玉・越谷市体育館で、ともにデビュー戦となる蝶野と対戦し逆エビ固めで勝利を飾った。

 そして武藤は、翌85年10月31日に東京体育館でファンに報告し、異例の早さで海外武者修行に出発する。ホワイト・ニンジャのリングネームで活躍し、翌86年2月14日、フロリダ州オーランドのエディ・グラハム・スポーツ・スタジアムでデニス・ブラウンのNWA世界ジュニアヘビー級王座に挑戦した。得意のムーンサルトプレスを披露し好勝負を展開したが、オーバー・ザ・トップロープで反則負けを喫した。

 武藤が住んでいたタンパの自宅訪問取材をしたある日、取材が終わり2人で日本食レストランで食事をしていると、身なりもキチンとした30代のカップルが隣の席に座り、しばらくすると「ニンジャ?」と話しかけてきた。武藤のことを知っているようだ。武藤の明るい性格もあり、場が盛り上がり会話も弾んだ。私たちが帰るとき、なんと、その方たちが我々の勘定まで払うと申し出た。

 アメリカ人には〝自分が頼んだものは自分で払う〟という先入観があったので、ちょっと驚いてしまった。武藤の人を引きつける魅力がそうさせたのだろうが、武藤のスター性を感じる出来事だった。
 
 さて、現在58歳の武藤は、6日にさいたまスーパーアリーナ行われた「サイバーファイトフェスティバル」で、人工関節の両ヒザをマットに強打するのもいとわず、約3年ぶりに禁断のムーンサルトプレスを敢行した。
 
 まだまだ、観客の目を釘づけにする技術はさすがだった(敬称略)。