【長嶋清幸 ゼロの勝負師(19)】前田智徳との“事件”があって、俺の周りの空気がトレードという感じになってきた。1年前の1989年には高橋慶彦さんがロッテにトレードされ、これがプロ野球の世界ということは10年もいれば分かる。お互いのチームのメリットとなるようなことだからね。衣笠祥雄さんによく言われたのは「ここだけがチームじゃない。必要とされるところでやるのが、プロとして幸せなことだ」と…。そして思わぬところからトレード話を耳にすることになった。

 俺の高校の監督の友人に星野仙一さんの親友がいて、その人から電話をもらった。「お前、広島を出る気あるか? もしよかったら仙が中日に欲しいと言っているが…」「必要とされるなら僕は行きたいです」と言った。その後に山本浩二監督からも連絡あり「マメ、これはしょうがないかもしれん」と。

 11月の東西対抗戦(宮崎)に出場していたら、中日の落合博満さんが「マメ! お前、来年からウチ来るんだって?」って。星野さんと浩二さんの目の前だよ。2人の顔色が変わって「これはマジだぞ」と思った。中日とはそれまで乱闘しているし、因縁がある。やり合った岩ちゃん(岩本好広)もいるしね。自分の中で心の準備があって、いつ言われてもおかしくないと思っていた。

 中日は…星野さんを中心にして「いつでもやったるぞ!」という武闘派の印象だった。大人が多い広島も、相手が星野竜だと空気が違ったもの。ベンチのヤジもすごくて、いつでも乱闘辞さずの構えだし、他球団も「なんかあったらいわさなアカンぞ」というふうに見ていたね。特に内野手は相手との接触が多いから高橋慶彦さんが矢面に立つ。なんかあったら全員で行かなきゃいけない。88年9月9日の中日戦では同級生の長冨浩志が3人に当てて乱闘になっちゃった。岩ちゃんとか出てきてぐちゃぐちゃになって、俺もセンターから駆けつけて退場になったこともあった。

 11年間、在籍した広島を去る。中日・音重鎮、山田和利と2対1の交換トレードということで格好つけてくれてありがたかった。星野さんからは「ウチはセンターがしっかりしたら優勝できる」と期待され、落合さんからは「俺がお前のバッティングをよくしてやるから心配するな」って言ってもらえた。

 星野さんは「敵とは話すな」という考えで、相手チームの選手と話せなくなった。乱闘したり、敵同士でもグラウンドを離れるとフランクなところがあったんだけど…。やさしくしてくれたのは島野育夫コーチ。苦しい時の心のよりどころというか「大丈夫やぞ」という言葉が温かい。88年9月の乱闘の時も星野さんが「マメ、出てこい! ここで岩本とタイマン張れ!」と叫んだ時に「行くなー、やめとけー」と止めてくれたのも島野さんだったね。

 ☆ながしま・きよゆき 1961年11月12日、静岡県浜岡町(現御前崎市)出身。静岡県自動車工業高から79年ドラフト外で広島入団。83年に背番号0をつけて外野のレギュラーに定着し、ダイヤモンドグラブ賞を受賞。84年9月15、16日の巨人戦では2戦連続のサヨナラ本塁打を放って優勝に貢献し、阪急との日本シリーズでは3本塁打、10打点の活躍でMVPに輝く。91年に中日にトレード移籍。93年にロッテ、94年から阪神でプレーし、97年に引退。その後は阪神、中日、三星(韓国)、ロッテでコーチを続けた。2020年に愛知のカレー店「元祖台湾カレー」のオーナーとなる。