沖縄は15日に1972年の本土復帰から50年を迎えた。米統治下にありまだ戦後の雰囲気が残っていた昭和30年代、日本プロレスの祖・力道山は合計4度、沖縄遠征を行っている。57年1月12~14日、同年10月24~25日、62年11月3~9日、63年4月14~17日の4回で、62年の遠征は全6大会で8万人以上の大観衆を集めた。11月9日那覇大会では沖縄初のインターナショナルヘビー級選手権が行われ、力道山がムース・ショーラックを撃破して13度目の防衛に成功している。

 63年4月には4度目の沖縄遠征(全4大会)を敢行。同年12月に死去する力道山にとっては最後の沖縄となるのだが、当時の本紙は「昨年11月以来、南西諸島は日本プロレスの有力な新市場となり、沖縄でのテレビ視聴率は平均90%といわれる。現に昨年11月の遠征は1週間に8万人余の観衆を動員した。『今年も(那覇の)3日間で8万人を動員する』とプロモーターは語っている」と記している。

 会社を挙げての戦略もあってか、開幕戦(4月14日)の宮古島・平良(ひらら)市大会当日には、最終戦(4月17日那覇)でのインターナショナル選手権、力道山対“おばけカボチャ”ヘイスタック・カルホーン戦の開催を緊急発表している。プロレス熱の高かった沖縄は沸きに沸いた。宮古島初のプロレス興行となった開幕戦の模様を本紙はこう報じている。

「宮古島は人口5万8000人。会場の平良女子高跡広場には約3分の1の2万人が集まった。宮古島の主産業は砂糖で、会場の周囲は見渡すばかりの砂糖キビ畑。この日は島にある2つの砂糖工場沖縄製糖、宮古製糖の従業員5800人が仕事を休みプロレス観戦。また近くの伊良部(いらふ)、多良間(たらま)、八重山諸島から船を仕立てて観戦に訪れた。午後3時半から始まった大会はおりから凄まじい豪雨に見舞われたが、2万人の観衆は初めて見るプロレスをズブぬれになりながら驚異の目を向けた」

 当時の雰囲気がよく伝わってくる。力道山はメインの6人タッグで快勝し、大歓声を浴びた。最終戦の写真クレジットも「東京―那覇間空輸」と記されており、時代を感じさせる。

 翌15日からは那覇市旭橋バスターミナル広場に会場を移しての3連戦。15、16日は観衆1万5000人、タイトル戦が行われた最終戦は1万人と数字が伸びなかったが、4大会で6万人の大観衆を記録。約1年ぶりの那覇での王座戦は大いに盛り上がった。

「1本目はカルホーンが183センチ273キロの超巨体を駆使して必殺スクワッシャー(肉弾重爆撃)で王者を押し潰して先制。2本目、力道山は飛び上がって脳天へガーンと空手チョップ。必殺の“脳天砕き”だ。力道山は3発、4発と脳天砕きの連打。さらにのど元へ水平打ち、馬乗りになってもう一撃。ゆうゆうと3カウントを奪った。3本目、カルホーンは戦意喪失。力道山は死力を尽くして体当たり。息もつかせず3発叩き込むと、73貫のカルホーンの巨体が地響きを上げて場外に真っ逆さまに転落。自らのウエートでグロッギーとなりそのままカウントアウト。力道山が見事15連続防衛に成功した」(抜粋)

 6年間で4回しか遠征がなかったとはいえ、全大会が1万人を超えていたのは驚きだ。「戦後」がまだ終わっていなかった当時の沖縄のファンにとって、力道山はまだ往年の「神通力」を持っていたのかもしれない。残念ながら力道山にとってはこれが最後の沖縄遠征となったが、72年に本土復帰以降、70年代後半からは各団体が遠征に訪れる回数は一気に増加。2008年には初の地元団体・沖縄プロレス(15年解散)が誕生している。 (敬称略)